『全国の焼き物』
第19回
常滑焼(とこなめやき)
常滑焼は、愛知県常滑市を中心とし、その周辺を含む知多半島一帯で焼かれる炻器をいいます。
(特徴)
中世の焼き物の中で、最大の生産量を誇りました。海上交通の便の良い愛知県知多半島一帯に古窯のあとがあり、確認されているだけでも500基を超えています。日本六古窯の一つであり、それらの大半は常滑焼をルーツにしています。
庶民をターゲットにして、値段の安いものを大量生産することに重点を置いた結果、個性的で野趣あふれる美が生まれました。
常滑の土は鉄分が多く粒が細かい。これは、低温でも堅く焼締まるので、大型の甕や壷をつくるのに適しています。しかし中世では、手間を省くために、ほとんどろくろも使わず釉薬をかけませんでした。器の口と土台だけはろくろでつくり、胴体は粘土ひもを巻き上げる成形をしていたため、どっしりと厚手で丈夫な焼き物ができあがりました。常滑焼は釉薬をかけることをやめてしまったが、穴窯で十日間以上じっくり焼成する間におびただしい灰が降りかかるため、それが器面の長石と溶け合ってできる自然釉が力強い表情を見せるようになりました。
(歴史)
常滑焼のルーツは、古窯でも最大の規模を誇った猿投窯(さなげがま)である。現在の愛知県名古屋市東部・猿投山にあったこの窯は、古墳時代には須恵器をつくっていました。
中世の常滑焼
平安時代、焼き物を作っていたところは、「日本六古窯(常滑、瀬戸、信楽、丹波、備 前、越前)」と呼ばれていますが、中世常滑窯はその中でも最も大きい生産地でした。
平安時代末期(12世紀前半)、常滑を中心にして知多半島の丘陵地のほぼ全域に穴窯が築かれ、山茶碗や山皿、壷などが作られました。灰釉陶器の伝統にはない大型の甕や壺を新たな器種として生み出し、中世陶器の主要生産地となりました。中世の常滑焼の窯跡は数千基に及ぶとされています。平安時代末期の製品は素朴な中にも王朝文化の名残りを感じさせる優美さを持ち、経塚などの仏教遺跡で用いられる事例が多くありました。さらに奥州平泉の遺跡群でも大量につかわれていたことが判明しています。平安時代末期以来、広く太平洋沿岸を中心として流通していたが、鎌倉時代になると、さらにその流通圏は拡大・充実していきました。広島県福山市の遺跡からは、備前焼の生産地に近いにもかかわらず、鎌倉時代の常滑焼が数多く出土しています。
その数数千基とも言われる中世窯は、広く知多半島の丘陵部傾斜面に掘られた地下式窖窯(ちかしきあながま)で、その大半は平安時代末期から南北朝期までの期間につくられました。
室町時代に入ると、半島全域に広く分布していた「窯」は常滑地区に集まってきて、しかも集落に近接した丘陵斜面に築かれるようになりました。生産品も碗・皿類の生産は行わず、大型の壺・甕・鉢ものがほとんどを占めました。それらの大型のカメや壷は、船で、東北、 関東、関西、中国、九州にまで運ばれました。
窯も地下式の穴窯から半地上式の大窯に改良され、製品は褐色の自然釉の真焼け、赤物と呼ばれた素焼きのカメをはじめとする日常雑器が多くなりました。
古美術の分野で「古常滑」と呼ばれるものは、多くは窖窯(あながま)で焼かれた製品を指しているが、その区分はかならずしも明確ではありません。
禁窯令と常滑焼
戦国時代、織田信長が瀬戸の陶器生産を保護するために、天正2年に瀬戸以外で窯を築くことを禁じる「禁窯令」を出したことで常滑の陶器生産は衰退したといわれるが、その後の日本各地の発掘調査によっても天正初期の極端な生産減少は認められません。
近世の常滑焼
窯は連房式登窯が現れ、土管・火鉢・盆栽鉢なども加わりました。
近世常滑焼では高温で焼き締めた真焼(まやけ)物と素焼き状の赤物(あかもの)と呼ばれる製品群がある。「真焼物」は甕・壺を中心とするが、江戸後期になるとこれまでになかった茶器や酒器などの小細工物と呼ばれる陶芸品も登場しました。ろくろを用いて作った作品が名工と呼ばれる人たちによって焼かれています。二代目伊奈長三(いなちょうざ)は、初代が開発した「藻がけ」技法を完成。赤土に白い化粧土をほどこし、海藻の藻を巻き付けて焼くことで、備前焼のような窯変をつくりだし、白泥に火色の赤が美しく映えます。
一方、「赤物」は素焼きの甕や壺のほか蛸壺や火消壺・竈・火鉢などが中心となるが、江戸末期には土樋(どひ)とよばれる土管が赤物として登場してきました。
近代の常滑焼
今日の常滑焼のシンボルともいえる朱泥焼締めの急須が誕生したのは、明治時代になって杉江寿門堂(安平)が、中国の金士恒(きんしこう)から製法を学び、茶壺の素材に近い朱泥を創出することに成功しました。
堅く焼締まった暗赤色の肌に独特の光沢があり、つかいこむほどつやが出る朱泥の土でつくられた急須は、ロングセラーとなっています。
株仲間のような規制がなくなると新規に陶器生産に参入する家が増えていきました。そして、明治の常滑では近代土管、タイルという産業用陶器があり、その生産は従来の窯屋だけでは供給しきれないほど大量の需要がありました。近代土管の生産は規格化された製品で、明治5年、横浜の新埋立地の下水工事に伴う注文がもたらされたことに始まります。また、都市での上下水道の分離が求められ、土管の需要は増大する一方でした。
タイルを中心とする建築陶器の生産は明治末年ころから開始されるが、大正期、帝国ホテルに採用されたタイルを常滑で生産して以降、急速にその生産量が増加していきました。幕末から常滑焼業界のリーダー的位置だった鯉江方寿は明治期に近代土管の量産を軌道に乗せ、さらに高級品志向の輸出用陶磁器の生産にも乗り出しました。本格的に輸出されるようになったのは朱泥龍巻(しゅでいりゅうまき)と総称される製品群でした。朱泥土を用い壺や投入、花瓶などを作り、その表面に石膏型で成型した龍を中心とした薄板状の文様を貼り付けてレリーフ状の装飾としたものが朱泥龍巻です。明治10年代に試作され20〜30年代に本格的に輸出された朱泥龍巻は北米を主要な市場としていました。常滑から神戸に送られ、そこでさらに漆や金箔などで装飾が施されていました。明治末になると朱泥龍巻は急速に商品価値を失い、大正期には新たに素焼きの生地に漆を塗り、様々な装飾を加えた陶漆器(とうしっき)が輸出品として生産されるようになりました。
近代の常滑焼は、初め連房式登窯と大窯で焼かれていたが、明治33年に結成された常滑陶器同業組合が明治34年度の事業として取り組んだ倒焔式の石炭窯の試験に成功したことで、石炭窯が急速に普及し、大正・昭和の主役となりました。しかし、町中を黒煙で覆った石炭窯も昭和45年「改正大気汚染防止法」のころから重油へと燃料転換がはかられ、さらにガス窯や電気窯の普及、そして、量産品はトンネル窯によって焼成されるようになり、その役割を終えていきました。
(常滑 土管坂)
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次回は 第20回「砥部焼」
(担当 A)
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