『全国の焼き物』
第18回
壺屋焼(つぼややき)
壺屋焼は沖縄県那覇市壺屋地区、読谷村その他で焼かれる陶器の名称です。沖縄の言葉で、焼き物のことを「ヤチムン」といいます。登り窯を中心に、灯油窯やガス窯を用いながら伝統の技術と技法を受け継いでいます。300年の長い歴史があり、1976年には通産大臣より、伝統的工芸品産業に指定されています。
(特徴)
壺屋焼の特徴は、沖縄で採れる土と伝統的な釉薬を用いた色とりどりの力強い絵付けです。
壺屋焼だけでなく、湧田焼や喜名焼なども含めた沖縄の陶器の特徴は、中国、東南アジア諸国、朝鮮、薩摩などの影響を受けながら技術を吸収しながらも、沖縄の風土と環境によって産み出されました。
また、琉球王国最大の窯場だった壺屋では、庶民の物から王族・士族の物まで、あらゆる階層が使う焼き物を作っていたため、現在でもさまざまな種類の器が作られていて、形や模様が多彩なのも大きな特徴の1つとなっています。
庶民が用いる器でありながら装飾性に富み、様々な技法を駆使した意匠は、大正時代の民芸運動家である柳宗悦(やなぎむねよし)らによって広く紹介され世に知られるようになりました。
現在つくられている壺屋焼は大きく分けて、「荒焼」と呼ばれる南蛮焼の系統を汲むものと、「上焼」と呼ばれる大陸渡来系の絵付がされるものがあります。
・荒焼(あらやち)
14世紀~16世紀頃、東南アジア方面から伝わった「南蛮焼」の焼き物。沖縄本島中南部で採れる粘土を使い、器の表に釉薬をかけず、やや低温の1120度で焼き締めます。それからマンガンという釉薬をかけて焼きます。鉄分を含んだ陶土の風合いをそのまま生かしたもので、見た目は荒いが土味のおおらかな印象が特徴。酒甕や水甕、味噌甕などのダイナミックで大きなものが多かったが、近年は日用食器も多く焼かれています。また魔除けで知られるシーサーも多くはこの荒焼です。
・上焼(じょうやち)
上焼は17世紀以降、薩摩藩から招いた朝鮮陶工らによって始められた絵付陶器です。
沖縄本島の中北部で採れる粘土を使い、器の表面が滲むのを防ぎ、色や模様を付け易くする為、釉薬をかけて焼き上げます。
様々な種類の釉薬を使い分け1200度の高温で焼締めます。こうして焼かれた壺屋焼はどっしりとした重量感と風格があり、沖縄の豊かな自然風土を写し取った焼物と称されます。
使用される釉薬の中でも特に白釉は、消石灰とモミ灰に沖縄の土である具志頭白土と喜瀬粘土を混ぜた壺屋焼特有のもので、壺屋焼の特徴である温かみの表現に重要な役割を担っています。
お椀や鉢、皿、急須、壺など、主に比較的小さい食器などの日用雑器が作られました。
壺屋焼には「荒焼」「上焼」の他に「アカムヌー」という種類があります。
「アカムヌー」は荒焼で使う粘土にニービ(細粒砂岩)を混ぜ、約600度で焼き上げたものです。主にヤカンや火鉢など、直接火にかけるものが作られました。
また沖縄独特のものとして泡盛酒器の抱瓶(だちびん・腰に下げる携帯用)やカラカラ(沖縄独特の注ぎ口のついた酒器)などがある。多くは化粧後に釘で線を彫る彫刻紋様(釘彫り、線彫り)などが施される。描かれる絵柄は沖縄の動植物、風景、抽象模様など多岐にわたるが、魚紋は特に数多く、壷屋焼の象徴となっている。動物たちが今にも動き出しそうな、自然のエネルギーを感じさせる。また地理的にアジアの国と交易も多く、エキゾチックな異国船や異国人を描いたものもある。荒焼に対して装飾性は強いが、これが上流階級だけでなく庶民向けでもあったため、濱田庄司などの民芸運動家を魅了した。
(歴史)
古琉球時代
沖縄の焼物(やちむん)の起源は、14世紀~16世紀頃に大陸からもたらされた城跡などから出土する高麗瓦が由来とされています。しかし、この高麗瓦が沖縄で焼かれたのか朝鮮半島で焼かれたのかはまだ明らかでない。中国から多量の陶磁器が輸入されました。これらは琉球国の王侯貴族たちの間でも利用されましたが、貿易品として周辺諸地域へ輸出されることもありました。
16世紀には、中国からの帰化人で、琉球最初の瓦工ともいわれる渡嘉敷三良( ? ~1604年、阮氏照喜納家の祖)の活躍が知られている。 また、万暦年間(1573年~1589年)に、唐名・汪永沢、小橋川親雲上孝韶が初代瓦奉行に任命され、陶瓦や焼瓷(やきがめ)の生産・管理を命じられていた。焼瓷とは今日の荒焼(あらやち)による甕(かめ)のことと考えられる。この頃、琉球王朝は中国や東南アジア諸国と盛んに交易を行っており、壺屋焼の一種である荒焼は別名「南蛮焼」「琉球南蛮焼」と呼ばれることからも、この頃に東南アジアから技術が伝えられたと言われています。
尚永王、瓦奉行所が設置され、瓦並に陶器を主管させたと文献に記録されています。そのころには琉球王国内でも瓦が本格的に焼かれ、城や寺などの建築材料として使われたようです。
近世琉球
17世紀に入って琉球王朝は江戸幕府薩摩藩の支配下となり、それまで盛んに行われていた外国との貿易も影を潜めるようになりました。そこで当時の琉球王、尚寧王(しょうねいおう)(1573~1588年在位)は朝鮮から陶工を朝鮮陶工の3名を薩摩より招き、湧田で朝鮮の作陶技術を積極的に取り入れた焼物を作るように推奨しました。こうして、壺屋焼の元となる上焼(じょうやち)が沖縄で焼かれるようになりました。
やがて1682年(天和2年)、尚貞王の時代に、王府内にあった首里、知花、湧田の窯が、牧志村の隣、現在の壺屋に統合され、これが現在へ続く壺屋焼の始まりとなりました。
現在でいうところの“経費削減”と壺屋付近で赤土が見つかったことが、その理由とされています。また、琉球使節の「江戸上り」の際、将軍や幕府首脳への献上品である泡盛を入れる容器としても用いられた。江戸時代の東京の汐留遺跡からは壺屋焼の徳利が出土している。また、幕末の風俗誌にも江戸や京都・大坂で荒焼徳利に入った泡盛が売られていたことが記されており、それを裏付けるように各地の近世遺跡で壺屋焼が出土している。
そして王国全体で、陶工の養成や、陶器産業を盛り上げていきました。壷屋は、土や水が非常に良質で量が豊富でした。しかも、港にも近かったので燃料になる薪や特殊な土の調達もしやすい好条件の立地でした。
明治以降の壷屋焼
明治から大正にかけて、いったん壺屋焼は琉球王府の廃止や幕藩体制の解消、さらに伊万里・有田などから安価な焼物の大量生産に押されて生産が低迷します。再生の転機は、大正の終わり頃から柳宗悦・濱田庄司によって起こされた民芸運動に陶工達が触発されてからである。しかし大正時代に入ると民芸運動の高まりとともに注目されるようになりました。太平洋戦争(沖縄戦)で沖縄本島全土が焦土と化す中、壺屋地区は比較的軽微な被害で済みました。遂には1985年(昭和60年)、陶芸家の金城次郎が沖縄県で初めて人間国宝に認定され、壺屋焼は沖縄を代表する伝統工芸品として広く知られるようになりました。
ちなみに、2000年に沖縄・名護市の万国津梁館で開催され、いわゆる“沖縄サミット”で、壺屋焼の陶工・小橋川清正氏の練込み皿が使用され、記念の品として各国首脳に贈られたことでも有名です。
(シーサー つくり)
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次回は 第19回「常滑焼」
(担当 A)
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