『全国の焼き物』第20回 砥部焼 | 奈良の鹿たち

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『全国の焼き物』

第20回

砥部焼(とべやき)

 

砥部焼は、愛媛県伊予郡砥部町を中心に作られる陶磁器です。一般には、食器、花器等の磁器が多い。愛媛県指定無形文化財。

 

(特徴)

砥部焼は江戸時代から磁器というより陶器のような味わいをもっていたが、白くて丈夫でしかも値段が手ごろだということで、広く愛用されてきました。

地元の陶石を用いた素地を生かし、やや厚手の白磁に、呉須(薄い青色の染め絵具)の藍で描く大胆な筆使いながらも、飾り気のないシンプルで軽やかなラインに魅力があります。生い茂る草がモチーフの「草文」、植物のツルを描いた「唐草紋」、均整のとれた円と曲線に安定感がある「太陽紋」、すらりと伸びる線が印象深い「なずな紋」など抽象的なものがよく知られています。磁器といっても、有田焼のようなとぎ澄まされた純白ではないやや濁りのありグレーがかった白で、それが呉須の藍色とよく調和しています。一方、あでやかな色絵というもうひとつの顔もあります。絵付けはほとんど女性の手によるせいか、モダンでやわらかい印象があります。

ぽってりとした厚みのある独特の形は耐久性があり、日常使いに向いています。割れにくいため食洗機で洗え、熱に強いため電子レンジでの加熱も可能。熱が伝わりにくく、手で持っても熱さを感じにくく料理が冷めにくいなど、使い勝手が良い。さらには値段が手頃で、身近な器としての魅力も大きい。また天然の灰を使った柔らかい発色の青磁の花器など、実用性とデザイン性を兼ね備えた日々の暮らしを支える器が多い。

後背の山地から良質の陶石が産出されていたことから、大洲藩の庇護のもと、発展を遂げました。

(草文)

(唐草紋)

(太陽紋)

(なずな紋)

讃岐名物・讃岐うどんの器として盛んに使われている。

(讃岐うどん 鉢)

 

(歴史)

砥部の盆地は、山裾の傾斜が窯の立地に適し、燃料となる木材が豊富にあったため古くから焼き物が作られていました。地元に残る古墳からは、6〜7世紀の須恵器の窯跡が多数発見されています。発見された須恵器のひとつ「子持高杯 (こもちたかつき) 」は、7つの小さな蓋付杯が器台に乗っており、当時の焼き物製造技術の高さが伺えます。1968年には国の指定文化財となり、現在は国立歴史民族博物館に収蔵されています。

奈良〜平安時代、砥部町外山の砥石山から切り出される砥石(といし)は「伊予砥(いよと)」の名で朝廷にも知られる産地でした。東大寺の仏像の造立に「伊予砥」を用いたことが記されています。また、平安時代の「延嘉式」にも伊予国産物として「外山産砥石」の記録が残っています。砥部焼と呼ばれる焼き物が作られるようになったのは、江戸時代中期で、大洲藩の財政を立て直すため、砥石屑(といしくず)を使った磁器づくりを、藩が命じたことが起源といわれています。砥石屑の処理に困っていた藩は、それを原料として焼き物が作れるということは、非常に有難いものでした。焼き物に必要な薪も近くの山々で豊富に採れたうえ、傾斜地に流れる渓流や小川は水車を据えるのに適しており、原料の砥石を砕き陶土にするのに盛んに用いられました。しかし、成功までの道のりは決して容易ではなかったが、2年半後の1777年 (安永6年) 、ようやく白地に藍色の焼き物作りに成功しました。これが砥部焼発祥の契機となりました。ただ砥石屑を使うだけに、少し黒っぽい地肌になってしまい、このため初期の皿や茶碗には、わざわざ白化粧したものもあります。

三秋 (伊予市) で釉薬の原料石が発見され、地元で安定した釉薬の供給が実現しました。また1818年 (文政元年) には、良質の陶石の「川登石」や「万年石」が発見されたので、砥石屑が使われることはなくなり、それまでのやや灰色がかっていたものより白い磁器を作ることが可能になりました。さらには、亀屋庫蔵が大洲藩の命により肥前で錦絵の技法を学び、絵付けにおいても技術革新が進められました。

明治期に入ると、廃藩置県により、それまで各藩が抱え込み、門外不出とされた陶磁器作りの技術が流出しました。瀬戸や唐津、あるいは京都などの当時の先進地の情報が砥部にもたらされるようになり、砥部焼も量産が可能となりました。明治5年頃からは松前(現在の伊予郡松前町)から販路を全国へと広げていきました。

その後、中国をはじめ東南アジアに「伊予ボール」のブランドの輸出商品として食器などが、郡中港(現在の伊予港)から出荷されました。砥部焼の名は世界に知られるようになり、大正時代には砥部焼の7割が海外に輸出されるまでに販路が拡大しました。

(伊予ボール)

 

しかし大正末期から昭和初期の不況により、砥部焼の生産や販売は落ち込むことになりました。一方で瀬戸や美濃といった先進地域では、新しい技術が次々と導入され発展を見せた時期でもありました。砥部はこの近代化の波から、一見取り残されたかに見えたが、戦後には砥部焼が持つ手作りの良さが改めて評価されることとなりました。

戦後は民芸運動を推進する柳宗悦、バーナード・リーチ、濱田庄司らから手仕事の技術が高く評価されました。その後、近代デザインなどの陶芸指導により大量生産を行う産地から、手作り、手描きを重視した伝統的工芸品の磁器の産地へと転換しました。

こうした努力が実り、1976年に通白磁、染付、青磁、天目 (鉄釉) の4種類が国の「伝統的工芸品」に指定されました。

今日では、四国最大の焼き物の里として、80軒ほどの窯元があります。

 

 

(砥部焼伝統産業会館)

 

 

 

 

 

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次回は 第21回「萩焼」

 

 

(担当 A)

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