『全国の焼き物』
第9回
小鹿田焼(おんたやき)
小鹿田焼は、大分県日田市の山あいに位置する小鹿田皿山地区(日田市源栄町皿山もとえまちさらやま)で焼かれる陶器です。現在も機械を使わず手作りが続けられています。
ずっしりと手に伝わる土の重みと、飛びかんななど連続性のある器面の装飾が引き立っています。その陶芸技法が1995年に国の重要無形文化財に指定され、2008年3月には地区全体(約14ヘクタール)が「小鹿田焼の里」の名称で、池ノ鶴地区の棚田とともに重要文化的景観として選定されています。
(特徴)
原料となる土は、集落周辺で採取される赤みがありきめが細かく鉄分を多く含む土のみが使われます。釉薬によって様々な形と幾何学的紋様を特徴とする小鹿田焼の日用品には、素朴さとあたたかみを感じさせます。ただし耐火度は低く、鉄分のため焼き上がりは黒っぽい。
小鹿田焼の窯元は代々長子相続、一子相伝で技術を伝え、弟子を取らなかったため伝統技法がよく保存されており、これが重要無形文化財に指定された大きな理由となりました。各窯元は手作業の家族経営で、体力が必要な土練りや成型は男性が担い、女性は釉薬掛けや窯入れを担当することが多い。唐臼の動力となる大浦川の水量、狭い山間部で窯を造れる用地、薪の確保、販路などの確保などで生産規模が制約され、家族経営が続いてきました。
現在9軒ある窯元は、全てが1705年ごろの開窯時から続く柳瀬家、黒木家、坂本家の三家体制で制作されています。窯元は、土採りを共同で行ったり、作品に個人銘を入れることを慎んだりするなど、小鹿田焼の品質やイメージを守る取り組みを行っています。
小鹿田焼の特徴的な技法は、鮮系登り窯を用い、「打ち刷毛(うちばけ)」「飛び鉋(かんな)」「刷毛目」「流し掛け」などがあげられます。その技法は約300年の間、一子相伝で守られています。
・打ち刷毛 (うちばけ)
ろくろを回しながら、化粧土をつけた刷毛を連続的に小刻みに打ちつけて模様をつける。朝鮮・李朝より伝わった技法。
・飛び鉋 (とびかんな)
型作りした器に、ろくろを回しながらL字型鉋(かんな)をあて表面をリズミカルに削り、器面いっぱいに細かい刻み模様をつける。原型の技法は中国・北宋時代の修式窯飛白文壺との類似が見られ、大正末から昭和初頭にかけて日本で取り入れられた。
・流し掛け
スポイトなどに化粧土や釉薬を入れ、それを一定の高さから垂れ流すようにかけて模様をつける。原料によってセイジ(緑)、アメ(飴)、クロ(黒)が主である。
・刷毛目
刷毛に白泥などの化粧土をつけて塗る。
釉薬は、全体的に渋く落ち着いた色合いのものが多い。原料は長石や灰、錆石、銅粉などで、それらを調合することで焼き上がりは白や黒、飴色、柿色、緑といった色になります。
小鹿田では黄褐色の粘土が採れるが、陶土としては瀬戸焼(愛知県)など他の陶器産地に比べ扱いづらい。掘り出した後に10日乾燥させて木槌で砕き、「唐臼(からうす)」と呼ばれる臼で20〜30日搗く。
こうしてできた土粒に水を加え、何度も濾して泥にして、それを水抜きや天日または窯の熱による乾燥で2ヶ月かけて仕上げます。焼くと火ぶくれや変形しやすく、鉄分が多いため黒っぽくなるが、刷毛目や指描き、櫛描きによって付けられる文様および釉薬との相乗効果で「用の美」(柳宗悦)が現れます。陶土を打ち砕く時には、ししおどしの原理で地元を流れる2つの川の水を利用した巨大な唐臼でおこなわれます。ししおどしのように受け皿に溜まった水が受け皿ごと落ちる反動によって陶土を挽いています。川のせせらぎと響き渡る唐臼の音。視覚と聴覚で感じるその風景は『残したい日本の音風景100選』に選ばれるほど美しい。
窯元によって構成される小鹿田焼技術保存会は重要無形文化財の保持団体に認定されています。
また、窯元がある皿山地区と棚田が広がる池ノ鶴地区が重要文化的景観として選定されています。
兄弟窯である小石原焼と小鹿田焼。
その違いは原料として使われる土にある。小鹿田焼に使われる土の方が、小石原焼の土よりも黒みがあります。そのため飛び鉋では、鋭角な切り込みを入れることができ、白化粧との対比で表される紋様がより際立ちます。
(歴史)
小鹿田焼は、江戸時代中期の1705年(宝永2年)若しくは1737年(元文2年)に、当時繁栄していた幕府直轄領、江戸幕府直轄領(天領)であった日田の代官により、領内の生活雑器の需要を賄うために興されたもの。山を隔てた現在の小石原(現在の福岡県朝倉郡東峰村)から招かれた陶工の柳瀬三右衛門と、彼を招いた日田郡大鶴村(現在の大分県日田市)の黒木十兵衛によって始められました。このため、小鹿田焼の技法は小石原焼の影響を強く受けています。その際に土地を提供したのが坂本家でした。以来、小鹿田焼は柳瀬家、黒木家、坂本家の三家の窯元で陶技を継承しています。元は、享和年間に小石原焼の分流の窯として開かれていたものであるという。
明治時代末期までは、瓶や鉢、壺など、農家で使用される道具を生産していました。当時の小鹿田焼の陶工たちは農業を続けながら陶製をする半陶半農の生活で、これは昭和40年代の民陶ブームまで続きました。
大分県の山間でひっそりと作られていた陶器が、脚光を浴びるきっかけとなったのが大正時代に始まった民藝運動でした。無名の職人の手によるものづくりの中に美しさを見出す民藝運動には、陶芸家の河井寛次郎や濱田庄司も参加しました。中でも運動の中心人物であった柳宗悦は、自身の著書『日田の皿山』(1931年)で「世界一の民陶」と小鹿田焼を称賛しました。同じく運動に加わっていたイギリス人の陶芸家バーナード・リーチは1954年と1964年に皿山地区を訪れ、陶芸技術を職人たちへ伝授しました。
民藝運動のうねりの中で、小鹿田焼の名は全国へ広まっていったのです。
(小鹿田焼の里)
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次回は 第10回「笠間焼」
(担当 A)
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