『全国の焼き物』第10回 笠間焼 | 奈良の鹿たち

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『全国の焼き物』

第10回

笠間焼(かさまやき)

 

 

笠間焼は、茨城県笠間地域で採れた笠間粘土を使って作られています。

関東で最古の歴史をもつ窯場ですが、その作風は窯元ごとに多様です。

 

(特徴)

笠間粘土は関東ローム層から出る粘りが強く粒子が細かいため、焼き上がりが堅くて丈夫であり、日常雑器としては理想的な土でした。薄くのばすと窯炊きのときにヒビが入ってしまうため、どうしても厚手につくらざるをえなかった。また、粘り気が強すぎる土は、型にはめて成形することが難しく、量産に向かなかった。このことが逆に、ろくろによる成形技術を発展させ、多品種・少量生産に向かわせました。

笠間粘土の他にも、蛙目(がいろめ)粘土と呼ばれる物があり、これは花崗岩の風化の影響で出来た鉄分を多く含む土です。これを練り込むことで、成形のときに伸ばしやすくなり、薄作りの製品もたやすくつくれるようになりました。
そして、笠間焼のひとつの顔である
糠白釉や柿赤釉を使い、登り窯での昔ながらの焼成にこだわる作風も残っています。

「特徴がないのが特徴」と言われている笠間焼。戦後、伝統にこだわらない自由な作品が作れる笠間の気風を求めて各地から若い陶芸家たちが集まりました。現在では安価で実用的な水瓶徳利から芸術的で斬新なデザインのオブジェまで多種多様な焼き物が焼かれています。

伝統的な甕や鉢などを焼いている窯元は一軒もありません。

栃木県益子町の益子焼は笠間焼の製法を受け継いでおり、笠間焼とは兄弟産地の関係にあります。このほか、山形県山形市の平清水焼、栃木県馬頭町の小砂子焼などが笠間焼と関わりを持つ産地として知られています。

現在焼き物としては、主に生活雑器(皿、カップ、鉢、湯呑、酒器等) 、その他人形やオブジェ、モニュメントなども製作されています。

 

(歴史)

笠間焼は、江戸時代中期の安永年間(1772〜1781年)からつくられるようになりました笠間藩・箱田村の名主久野半右衛門道延が、近江信楽の陶工、長右衛門を招聘して窯を築き陶器を焼いたのが起こりとされています。その後、久野家を含む6窯元が笠間藩の御用窯である「仕法窯」に選ばれ、藩に保護される事になり甕・摺り鉢などの日用雑器が産み出されるようになりました。

幕末から明治にかけては江戸に近い利点から、大量生産の機会を得て技術者や従事者も飛躍的に増えました。江戸時代末期の1850年頃には、関東の伝統ある焼き物産地笠間で修行した陶芸家たちが、笠間焼の技術を近隣へ広めていきました。なかでも益子焼は、笠間の陶芸家が栃木県益子で開窯したことをきっかけに生まれたとされ、産地として兄弟関係にあたります。

江戸時代に発展していた笠間焼も、明治時代に入ると一時低迷しました。

そんな中で復興に尽力し中興の祖と呼ばれた人物に、行商の身であった田中友三郎がいました。

田中友三郎は笠間焼の主力製品としてすり鉢と茶釜の知名度を上げ、積極的に広報や販路開拓をしました。それまですり鉢は備前産が名をあげていたが、努力の甲斐あり「笠間焼は頑丈で安い」と高い評価を受けるようになりました。

1868年(明治10年) の内国博覧会では、笠間焼の茶壺が一等を受賞。全国で笠間焼の名が知られるようになりました。

1889年(明治22年)の水戸線開通で列車を使っての運搬が可能になったことで、販売経路が東日本一帯へと広がり、笠間焼は隆盛期を迎えました。

販売の増加に伴って、主力製品のすり鉢・茶壺にとどまらず、甕・壺・徳利・行平・火鉢・土瓶・湯たんぽなどの様々な日用品が生産されるようになりましたた。終戦後、プラスチックの登場や工場での大量生産など、時代の変化によって笠間焼の需要は減り、今までに無いほどの窮地に追い込まれました。これは焼き物需要の低下だけでなく、産地のまとめ役である「問屋」が笠間に無かったことが大いに関係すると言われています。

そこで茨城県は、業界の要望で1950年昭和25年) に県立窯業指導所を設立し、釉薬の改良、重油窯の導入や技術者の養成に力を入れ、試験・研究・指導機関としてスタートしました。

また笠間市は地場産業の窮地を救うべく「芸術の村」建設の政策に踏み切りました。

「芸術の村」を作り上げる政策のなかで、陶芸家を誘致するため、1963年に陶芸団地、1972年に窯業団地を建築。そのお陰で若手の陶芸作家たちが集まり、笠間焼の活気を取り戻すとともに、伝統に縛られた作風だけではない自由な制作を可能とする風潮を作り出すことに成功しました。

 

(笠間焼総合芸術村 笠間工芸の丘 クラフトヒルズKASAMA

 

 

 

 

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次回は 第11回「唐津焼」

 

 

(担当 A)

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