『全国の焼き物』第11回 唐津焼 | 奈良の鹿たち

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『全国の焼き物』

第11回

唐津焼(からつやき)

 

 

唐津焼は近世初期以来、現在の佐賀県東部、長崎県北部で焼造された陶器の総称です。日常雑器から茶器まで色々な器種が存在しています。作風や技法も多岐に渡り、茶碗は「一楽二萩三唐津」と称されるほど有名です。分派の、武雄古唐津焼と同じく日本の伝統的工芸品に指定されています。

 

(特徴)

唐津は古くから対外交易拠点であったため、安土桃山時代から陶器の技術が伝えられていたと言われ、現在も佐賀県の岸岳諸窯など至る所に窯場跡が点在します。
唐津焼の特徴は李氏朝鮮から伝わったとされる伝統的な技法が今に根付いているところです。特に蹴ろくろ、叩き作りといった技法は古唐津から伝わる技法で、現在もこの製法を行っている窯があります。窯は連房式登窯という大がかりな窯を用い、そこで1300度の高温で一気に焼き締めます。ざっくりとした土そのものの味わいを楽しめます。これは唐津地方の「砂目」と呼ばれる粒子の粗い陶土から生まれる特徴です。鉄分を多く含む黒っぽい褐色になるものが多いが、採れる場所や焼成方法によって微妙に色合いが変わります。陶工たちは土の味を生かすため、山から掘り出してきた土にほとんど手を加えずに使います。さらに唐津焼の土味をいっそう生かしているのが、釉薬の生み出す独特の光沢です。ベースは木灰からつくる「土灰釉」と呼ばれる釉薬。これはブナ科の木の灰を原料とし、ふるいにかけたり水中で沈殿させたりする作業を繰り返すなど、手間暇かけてつくります。この土灰釉に、藁灰釉、長石釉、鉄釉などを調合したものをさらにたっぷりかけます。その渋い光沢によって、器肌の土ものの風合いが引き出されます。意匠は茶器として名声を馳せただけあって、非常に素朴で、それでいながら独特の渋みがあります。

 

(歴史)

唐津焼は近世初頭から肥前国に散在した諸窯で生産されました。

製品が唐津の港から積み出された事にちなみ唐津焼と呼ばれている説もあります。
古唐津の窯跡は、唐津市域だけではありません。佐賀県武雄市、伊万里市、有田町、長崎県佐世保市、平戸市など、広範囲に分布しています。
伊万里や、唐津等、肥前の陶磁器は、豊臣秀吉が行った朝鮮半島への出兵で、朝鮮半島から連れ帰った陶工達が技術を伝えて開窯されたというのが通説でした。しかし最近では、窯跡の調査、陶片の出土状況から見て、唐津焼の創始は朝鮮出兵より早く、1580年代には開始されていたという説も出始めています。

しかし、蹴ろくろや登り窯の技術を取り入れたのは朝鮮陶工たちであり、日本では初めてだった。ひも状の粘土を叩き板で叩いて成形する「叩き技法」や鉄絵装飾なども、このとき始められた。

(朝鮮唐津)

黒い鉄釉を下にかけ、白い藁灰を上にかけて釉薬が流れる景色を表現したもの。

唐津焼の技術はその後、日本各地に広がり日本の焼き物に大きな革新をもたらしました。

形や模様に美濃桃山陶と共通する特徴が多いが、ろくろで丸く成形してから形に変化をつけるのは、唐津焼独特の技法です。

また茶陶は千利休や古田織部など一流茶人にも好んで使われ、千利休が所持した道具の中に唐津焼がありました。
長崎県壱岐市の聖母宮には天正20年という銘が刻まれた黒釉四耳壺等もあります。これが唐津の在銘最古遺品とされています。そのため、唐津焼は、1591年以前にはもうあったと言われる根拠となっています。

古田織部の慶長8年(1603年)の茶会記に唐津焼の記録上の初見とされています。寛永15年(1638年)成立の俳論書には「唐津今利ノ焼物」という文言があり、「唐津」が土もの(陶器)、「今利」(伊万里)が石もの(磁器)を意味すると解されています。

「古唐津」の初期の窯跡は、波多氏の居城があった岸岳山麓に点在しています。岸岳古唐津の古窯群では藁灰釉を用いた「斑唐津」が生産されていました。

(班唐津)

長石に藁灰などをまぜて焼き、素地の中の鉄分が青や黒のまだらとなったもの。

窯は朝鮮式の割竹形登窯で、その一部が残存しています。

(唐津藩の御用窯として用いられた御茶盌窯跡)

文禄・慶長の役以降になると、肥前陶器の産地は広がり、窯の所在地によって、松浦系古唐津、武雄系古唐津、平戸系古唐津などと称されるようになりました。中でも藤の川内窯、市ノ瀬高麗神窯、甕屋の谷窯などが、「絵唐津」の名品を焼いた窯として知られました。

(絵唐津)

素地に木、草、花などの文様を描き、透明釉薬を施したもの。

唐津焼の草創期は、食器や甕など日用雑器が中心に作られていました。しかし唐津焼の質朴さ、侘びの精神が組み合わさり、茶の湯道具や、皿、鉢、向付などが好まれるようになりました。唐津の焼き物は京都や大坂にも販路を拡げた事で、西日本では、「からつもの」と言えば焼き物の事と言われるぐらい多くの人に知られる焼き物となったのです。
遠くは琉球や東南アジアにまで海上輸送された。とりわけ桃山時代には茶の湯の名品として知られ、一井戸二楽三唐津と格付けで名前が出る程でした。
だが
江戸時代に入って窯場が林立し、燃料のの濫伐による山野の荒廃が深刻な問題となったために、鍋島藩は藩内の窯場の整理、統合をしました。それによって窯場は有田に集約されたため、唐津は甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊されました。しかし、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続しました。その間の焼き物は幕府にも多数献上品が作られたため、「献上唐津」と呼ばれました。

 象嵌雲鶴文大皿(献上唐津)

明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭もあって、多くの窯元が廃窯となりました。だが後の人間国宝、中里無庵が「叩き作り」など伝統的な古唐津の技法を復活させ、再興に成功させました。現在は約40軒以上の窯元があり、伝統的な技法を継承する一方で、新たな作品を試みたりしています。

 

(唐津焼 窯元)

 

 

 

 

 

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次回は 第12回「京焼・楽焼」

 

 

(担当 A)

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