『全国の焼き物』第12回 京焼・楽焼 | 奈良の鹿たち

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『全国の焼き物』

第12回

京焼(きょうやき)・楽焼(らくやき)

 

 

京焼は、日本の陶磁器のうち、京都で焼かれる作品の総称です。

当初は、東山エリアを中心に茶陶として作られたものを「京焼」、清水寺の参道である清水坂・五条坂エリアで作られたものを「清水焼」と呼んでいたが、400年の歴史の中で生産地域が広がり、技法が多様化したことにより全体の総称として使われるようになりました。

 

(特徴)

経済産業大臣指定伝統的工芸品としての名称は「京焼・清水焼」。窯の所在地は東山が中心で、このほかに 洛東や洛北に点在していました。

京焼と言えば華やかな色絵を思い浮かべるが、他の地域で焼かれる色絵には無いあたたかみがあります。これは、京焼が有田や九谷の色絵磁器と違い、陶器に絵付けしたやきものだからで、土本来のもつ色や質感を楽しむことが出来ます。このスタイルを完成させたのが江戸時代初期に活躍した野々村仁清です。

決まった技法やデザインはなく、原料の土や石も他産地のものを取りよせて作陶されます。京都は、継承されてきた繊細な絵付けや優美な造形と、各地から取り入れられた時代ごとの新しい技芸が共存する地域です。特筆すべきは、現代も手仕事にこだわり続けている点。高い技術と多様性を持って発展を続けていることが特徴と言えます。

原料や技法に制限を設けない京焼だが、唯一の決まりがあります。それは、轆轤 (ろくろ) も絵付けも全て手作業で行うということです。このアイデンティティを守りながら、窯元や作家ごとの個性が発揮された作品が作られています。茶道具や高級食器に加え、日常使いできる器、置物やオブジェなど鑑賞のための作品も多数作られる京焼・清水焼。日常に彩りを添えてくれる器として、芸術鑑賞の機会として楽しめるものとなっています。

一度焼成した後に上絵付けを施す上絵付けの技法を用いた陶器が多く、作家ごとの個性が強いのが特徴です。 また、「乾山写し」「仁清写し」など、他窯のデザインを本歌取りした写しものを得意としています。江戸時代、京焼の陶工は他の陶磁器産地に招かれて、その作風や技術は全国に影響を与えました。

 

(歴史)

後に京都(平安京)が造営される地では、古墳時代には祭器や瓦などが作られていた記録があります。古くから都であった京都は、情報や流通の中心地であり、またそれらを発信する場でもありました。中世の頃には瀬戸・常滑・備前・信楽などの国産陶器や中国・朝鮮からの陶磁器が大量に流入する場でした。平安京の時代から須恵器などの生産は行われていたが、登窯によって陶磁器が作られ始めたのは桃山時代から江戸時代初頭の頃。

現代に至る京焼の起源としては、慶長年間初頭の1590年代末には生産が始まっていたと考えられています。この頃の作品については不明な点が多いが、低温で焼成し、鉛を含む釉薬が使用されていて、技法やデザインが多様なことが特徴です。

この時期以前の京都では、三条粟田口界隈に陶磁器の窯元が集中しており「粟田焼」が造られ、京焼の中でも最も古いといわれています。ただし、天正年間以前の16世紀中頃には三彩や交趾焼などの技術を持った中国人陶工およびその後継者達が製陶を開始していました。緑、紫、紺、黄など寒色系の釉薬が特徴で、押小路焼のルーツとなったと考えられています。

当時、商人が全国から職人を京都へ呼び、各地の焼き物を作らせた。茶の湯の流行とともに、茶道具や器が作られるようになり、茶人を中心に公家や大名などに献上されるまでに発展しました。17世紀(江戸時代初期)に入ると、茶道の興隆に伴って茶碗、茶入など茶陶の製造が盛んになりました。瀬戸焼、美濃焼や唐津焼の職人が京で作陶し、各産地の技法をベースとして高麗茶碗の写しなどが作られていました。この頃、黒谷土と呼ばれる製陶に適した原料土が京周辺の山城国で発見されたことも陶磁器の生産の助けとなりました。

「粟田口焼あわたぐちやき)(粟田焼)」は京焼の中で最古の部類に入り、寛永年間(1624年~1645年)には粟田口で生産を行なっていました。ここでは中国の茶器の写しや天目茶碗が作られていました。

「八坂焼(やさかやき)」は1640年、「清水焼(きよみずやき)」は1643年までには存在が確認されています。これに続いて「御室焼(おむろやき)」、「御菩薩池焼(みぞろがいけやき)」、「修学院焼(しゅうがきいんやき)」なども作られました。

一方、民衆の間での焼き物としては清水寺との関係性が挙げられます。清水寺の参道であった清水坂・五条坂エリアは、江戸中期頃に清水寺の門前として賑わい、参拝客などへの土産物として焼き物が作られ販売されました。当時は地元の土で作られていたため、その土が縁起物として喜ばれたという側面もありました。

(清水焼)

 

色絵陶器(野々村仁清)

(野々村仁清 作 「色絵藤花茶壺」)

江戸時代初期の慶安3年(1650年)に金森重近が茶会に関する記述の中で、絵付を施した「御室焼」の登場が確認されています。さらに翌年か翌々年には赤色系の上絵付を施した「御室焼」が野々村仁清によって初めて作られました。陶器である京焼の魅力を生み出す土の色は、そのままではあざやかな色絵を描く背景として白さに乏しかった。そこで仁清は、陶器の地肌に釉薬で化粧がけをして白い背景をつくりました。そこに繊細な色絵をほどこすことに成功しました。陶器に調合・焼成の困難な赤色系の絵付を17世紀に成功させたのは、磁器を国内で初めて製作した伊万里焼(有田焼)以外ではこれが唯一の例でした。また、中国風の絵柄のみならず、大和絵や水墨画ものを取り入れたのも仁清でした。文化の中心である都にふさわしく、明るく洗練された色使いと筆使いで描かれ、絵の具を塗りこめる仁清の色絵は京焼のひとつの主流となりました。

また、江戸時代中期以前に京都近辺で焼かれたものをまとめて「古清水(こきよみず)」ということもあります。淡い黄色の地に青・緑で模様を描いた上品で清楚な色絵ものがあります。

(古清水「色絵七宝透文手焙」)

 

楽焼(らくやき)(長次郎)

千利休が「冷・凍・寂・枯」の世界を求め、茶碗の理想を追求した過程で誕生したのが、「楽焼」の茶碗です。

楽焼碗には装飾性というものはなく、器面はモノトーンの世界で絵付も無い。ろくろを一切使わず、ヘラで削って成形する「手づくね」の技法をとり、低火度釉の陶器がもつ柔らかみの中に、茶人や陶工の美意識を写し出しています。感触・形・色合いのすべてを茶人の好みに合わせてつくる「楽焼」は、その精神性の強さが他との差別化が顕著です。初代長次郎が豊臣秀吉から「楽」の印字を受け、そこから焼き物を「楽焼」、長次郎一族を「楽家」というようになりました。そして二代目の吉左衛門が「楽焼」の基礎を築きました。

京都随一の芸術家・教養人として君臨した本阿弥光悦は、茶人としても一流で「楽家」と親交があり、自らも楽茶碗を焼きました。「手すさび」として楽しみながらつくった彼の作品は、「楽焼」とはひと味違う豪快さ自由さをもったものでした。

なお、本来は「楽焼」は「京焼」に属さず独立しています。

(長次郎 作 黒楽茶碗「夏夜」)

(本阿弥光悦 作 国宝 白楽茶碗『不二山』)

 

18世紀以降

京焼・清水焼の芸術性の歴史においては、野々村仁清や尾形乾山などの名工が現れたことは、その価値は高めるものでした。さらに18世紀後半には、奥田頴川(おくだ えいせん) が磁器焼成に成功し、京都の陶芸技術に新風を吹き込みました。

幕末の開国を機に、「粟田口焼」の六代~七代錦光山宗兵衛などは薩摩焼に京焼風の絵付けをした「京薩摩」や、七宝の胎に陶器を用いた「陶胎七宝」を欧米に輸出。このほかにも海外市場を開拓した京焼窯は多くありました。また西洋風陶磁器が作られたり、工場方式や共同窯・貸窯による大量生産が行われたりしました。

明治維新により、京都の窯業も大きな打撃を受けました。東京遷都や廃藩置県によって、京都の人口減少や経済衰退といった変化や、公家や諸大名などの需要層を一気に失うこととなり、茶陶の需要が激減し廃業した者も多かった。1869年 (明治2年) には、勧業場を設けて産業振興を図り、欧米の陶芸技術も積極的に取り入れました。

1896年(明治29年)には京都市立陶磁器試験場が設立され、技術の研究など近代化が進みましだ。現代でも、高級な茶器・食器や芸術品として京焼は作られ続けています。伝統的な登り窯だけでなく電気窯やガス窯も使われるようになり、作陶地も東山に限らずその東の京都市山科区や、京都府南部の宇治市炭山地区などへ広がりました。

大正時代になると、清水坂・五条坂周辺が手狭になり、新たに日吉と泉涌寺エリアに拡大しました。この時期、他産地では大規模な工場が開設され、機械による日用品の量産が次々と開始されました。職を追われた優秀な職人たちは京都に移住。京都の工房や工場は小規模なものが主体であったが、高度な技術や茶道具などが生産され続けました。大正期は、個人の芸術性が追求された時代でもありました。民藝運動が柳宗悦によって提唱され、陶芸にもスポットがあたりました。京都に居を定めた富本憲吉は「新匠美術工芸会」を設立。1927年 (昭和2年) には、移住してきた職人たちとともに優れた陶芸家が京都に集まり、窯業基盤が拡大したことも、京焼における芸術運動の高揚につながりました。

太平洋戦争後、京都の陶芸を牽引したのは、六代清水六兵衛と楠部彌弌くすべ やいちでした。両者の指導により多くの陶芸家が育ち、現代京焼の礎となりました。

現在、「清水焼」の窯元の多くは山科区に集中しています。工業団地として造成されたこの場所は「清水焼団地」と呼ばれています。また、京都市内からは離れた宇治市の炭山地区にも多くの窯元が存在します。

 

(京焼 絵付け)

 

 

 

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次回は 第13回「九谷焼」

 

 

(担当 A)

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