『全国の焼き物』
第13回
九谷焼(くたにやき)
九谷焼は、九谷焼は石川県南部に位置した、金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産されている色絵の磁器です。
(特徴)
多色の絵が描かれる上絵付けが持ち味です。緑、黄、赤、紫、紺青の五彩で施される絵柄は、豪快で濶達な線書きの上に、「呉須 (ごす) 」とよばれる黒色の顔料で線描きし、「五彩」とよばれる赤・黄・緑・紫・紺青の5色の絵の具を厚く盛り上げて塗る「五彩手」と呼ばれる彩法が用いられています。山水、花鳥、など絵画的で大胆な上絵付けが力強く和絵具の重厚な輝きが美しい。
普段使いの器としても親しまれているが、絵画的で華やかな絵柄はハレの日を彩る器として活躍し、贈り物や記念品として使われたりしてています。価値の高さとして、絵柄も形も同じというものがほとんどないことが上げられます。
中でも古九谷は美術的、骨董的価値が高いために、多くの人々に強い興味をもたれています。また、同様式の生産が有田窯で行われていたなど謎多き焼き物としてロマンを感じる人も多い。
窯ごとに独自の画風があり、古九谷の紫、黄、緑、青で描かれた「青手」や、靑手の色に赤を加えた「五彩手」、宮本屋窯の「赤絵細描」などは特徴的。また、明治時代にかけて登場した「金襴手(きんらんで) 」という技法が一斉を風靡し「ジャパンクタニ」の名で世界的にも有名になりました。
(歴史)
古九谷
大聖寺藩領の久谷村(現在の石川県加賀市)で、良質の磁鉱が発見されたのを機に、大聖寺藩主・前田利治が、藩士の後藤才次郎を有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年頃)、藩の殖産政策として始められました。しかし、約50年後(18世紀初頭頃)突然廃窯となりました。藩の財政難による窯の資金不足や、藩主の代替わりをきっかけとする政策の方針転換など、その理由として明確な記録はなく、現在まで謎として残されています。
この間に焼かれたものが後世、「古九谷(こくたに)」と呼ばれ、日本の色絵磁器の代表として独特の力強い様式美が高く評価されています。
「古九谷」と呼ばれる磁器は、青、緑、黄などの濃色を多用した華麗な色使いと大胆で斬新な図柄が特色で、様式から祥瑞手(しょんずいで)、五彩手、青手などに分類されている。祥瑞手は、赤の輪郭線を用い、赤、黄、緑などの明るい色調で文様を描いたものです。五彩手は黒の輪郭線を用い、青、黄、緑、紫などの濃色で文様を描いたものです。青手は、色使いは五彩手と似るが、素地の白磁の質がやや下がり、素地の欠点を隠すように、青、黄、緑、紫などの濃彩で余白なく塗りつぶした様式のものです。
「古九谷有田説」論争
実は、昭和10年代には、すでに「古九谷の伝世品の中に有田産の製品が混じっているのでは?」さらに、「生産規模の小さいはずの古九谷が、ヨーロッパに多く残るのはおかしいのでは?」という説が出されるなど、「九谷生産説」が揺らぎはじめました。
窯跡の発掘調査や出土品の化学分析などの結果から、従来古九谷と位置づけられてきた一群の初期色絵磁器は、その大部分が1640~1650年代の「九谷ではなく佐賀県の有田の初期色絵作品である」といわれるようになりました。
昭和40年代以降、有田の山辺田窯跡で伝世品として残る「古九谷」大皿と同様な色絵素地が多量に出土しました。さらに昭和60年代以降になると、窯跡のほか、17世紀後半以降の赤絵屋の工房跡なども発見されました。ここは上絵付けも行った工房跡であるため、色絵磁器も800点くらいも出土していますし、赤絵窯跡も発見されました。ここで一気に「古九谷有田説」が有力視されるようになったのです。
これは、当時の「古九谷」の名が、当初より拡大の一途をたどっており、「有田は職人の絵だが、古九谷は絵師の絵」などの理由で、色絵磁器に限らず良質なものの多くは「古伊万里」ではなく「古九谷」とされたため、1659年以降に有田の製品まで「古九谷」の名でヨーロッパに大量に輸出されたことによります。
再興九谷
古九谷の廃窯から、約100年後の江戸時代後期の文化4年(1807年)に加賀藩が京都から京焼の名工・青木木米を招き、金沢の春日山窯で古九谷を手本として焼かれたものがルーツとなっています。これをを皮切りに、金沢や小松、発祥の地大聖寺藩内の九谷や山代など数々の窯が加賀地方一帯に立ちました。さらに、早くから生地作りと絵付けを分業化させたのも職人技術を高めました。この試みは短期間で終わりを迎えたが、これを機に九谷焼が息を吹き返しました。
春日山窯以降、幕末から明治にかけて開かれた窯で焼かれたものを「古九谷」に対し「再興九谷」といいます。 同じ頃、能美郡の花坂山で、新たな陶石・花坂陶石が発見され今日まで主要な採石場となりました。この陶石を還元焔(酸素の少ない炎)で不完全燃焼させると、純白よりもやや青味がかた色になります。この透明感のある青い地肌の優雅さが、九谷焼のあでやかな色使いや印象的な絵模様を引き立たせています。これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、文政2年(1819年)に磁器を、翌年に陶器を、それぞれ移入禁止にしました。
(春日山窯)青木木米の指導で、全面を赤く塗り中国風の景色を描いた。
九谷庄三(くたにしょうざ)は 江戸末期(1816年~1883年)、能登の火打谷で能登呉須と呼ばれる顔料を発見。後の九谷焼に多大な影響を与えました。故郷の寺井窯を開き、西洋から入った顔料を早い時期から取り入れ 主に洋絵具を用い細密な描法の彩色金襴手の庄三風と呼ばれる画風は、後に西洋に輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになります。
新九谷
明治時代に入り、見事に再興した九谷焼は外国にも輸出されるようになりました。1873年のウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時に西洋の技法も入り込みました。1872年頃から型押しの技術を使用して九谷焼がつくられるようになりました。1892年頃から、獅子を始めとする置物の製作が盛んとなり、大正時代になると石膏の型でも製品が作られるようになりました。九谷焼の量産化の始まりです。
大正時代には古九谷を手本とした磁器は、青や緑、黄色、このような濃色が多く使用されています。その為に色使いが非常に華麗な物になっています。さらに大胆で斬新な図柄も特色のひとつといえます。
祥瑞手という赤の輪郭線が使われている様式は、五彩手、青手に分かれていて、赤、黄、緑、それらの明るい色調で、文様が描かれて非常に鮮やかです。
五彩手は黒の輪郭線が使用されていて、青、黄、緑、紫の濃色で文様が描かれています。
青手は、五彩手と色の使い方が似ていますが、素地の白磁の質が少し下がっています。その欠点を、青、黄、緑、紫などの濃彩で塗り潰しているのが特徴です。
(九谷陶芸村)
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次回は 第14回「薩摩焼」
(担当 A)
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