『全国の焼き物』
第14回
薩摩焼(さつまやき)
薩摩焼は、鹿児島県内で焼かれる陶磁器の総称です。。中心の窯場は姶良市の龍門司窯、日置市の苗代川窯、鹿児島市の長太郎窯等です。豪華で美麗な色絵綿手の磁器の「白もん」と、大衆向けの雑器で「黒もん」があります。
(特徴)
繊細な造形が美しい白薩摩、素朴な味わいの黒薩摩。
使われている土の材質から「白もん」「黒もん」と呼ばれ愛されるうつわの背景には、海を隔てた異国の地からやってきた陶工たちの歴史ドラマがあります。
白薩摩(白もん)
「白もん」とは白薩摩という陶器です。日置市の旧東市来町の美山にある苗代川窯で焼かれていました。藩主向けの御用窯で、象牙色や淡いクリーム色の器肌に、透明の釉薬をかけ、金、赤、緑、紫、黄などの色とりどりの色味をつかって絵付される秀麗、美麗な絵付が特徴の色絵錦手です。加えて、ミリ単位で調整する透かし彫りなどの繊細な造形も特徴的です。花瓶や茶器、香炉など格調高い名品が数多く生み出されました。鹿児島には鉄分を多く含む桜島の火山灰が降り注ぐため、白土は大変貴重なものであり、白もんは薩摩藩の御用品であった。元々、苗代川焼と呼ばれていた物で、薩摩焼とは名称が違っていました。
黒薩摩(黒もん)黒千代香(くろちよか)
一方で庶民は、豊富に採れる黒褐色の土で作った黒もんのみを使用することが許されました。
「黒もん」は黒薩摩です。白さつまとは対照的で、大衆が使用する日曜雑器として焼かれていました。使用されている土には火山灰や軽石が混ざり、鉄分の多い黒褐色の土が使われている。その為、黒くなるのが特徴です。
さらに、黒や褐色、緑系の釉薬などを使用し、黒っぽく焼き上げて重厚で素朴な存在感が、黒薩摩の特徴です。
特に、黒千代香(くろちよか)と呼ばれる素朴な酒器は、焼酎を飲むときに用いられます。
薩摩焼の古窯跡は50箇所ほどあり、現在では「苗代川 (なえしろがわ) 系」「竪野 (たての) 系」「龍門司 (りゅうもんじ) 系」と呼ばれる3つの系統が残っています。
「苗代川 (なえしろがわ) 系」:串木野窯から少し南にある苗代川に窯を移したあと白い土が発見されると、金、赤、緑、紫、黄など華美な絵付を行ったきらびやかな装飾が施された白もんが作られるようになりました。御用窯として白もんを焼き、廃藩後は黒もんも焼いていました。
「竪野系」:鹿児島市北東の帖佐 (ちょうさ) にあった宇都 (うと) 窯という藩窯から始まり、繊細な浮彫や色絵を施した白もんの献上・贈答用の茶陶が作られたことで知られます。
「龍門司系」は、八日町窯で黒もんに力を入れ、様々な釉薬の技法で徳利をはじめとする酒器や茶陶、日用品などを製作しました。
(歴史)
薩摩焼とは、朝鮮出兵(1592~1598年) の際、島津義弘によって連れてこられた約80人の朝鮮陶工たちが薩摩藩各地に窯を開いたことに始まる陶器のことをいいます。沈壽官家初代、沈当吉(ちん・とうきち)もその中のひとりでした。陶工たちは故郷である朝鮮の地に思いを馳せながらも、生きていくために異国薩摩の地で作陶し続けた末、白肌の美しい陶器、白薩摩を生み出しました。その末裔の一人である14代沈壽官氏は、半生を司馬遼太郎が短編小説『故郷忘じがたく候』に描いたことでも知られます。作品は数百年たった今もなお変わらず、朝鮮陶工の子孫たちが故郷へ寄せる思いを題材にしています。
京薩摩・横浜薩摩
幕末に日本が開国すると、日本の陶磁器のうち美術的に優れたものは欧米へ輸出されるようになりました。薩摩藩は1867年にフランスの首都パリで開かれた万博に薩摩焼を出展し、現地で好評を得ました。こうした背景から幕末から明治初期に掛けての京都で欧米への輸出用により伝統的な日本のデザインを意識し、絵付けされた「京薩摩」が作られました。横浜や東京で絵付けされ、横浜港から輸出されたものは「横浜薩摩」と呼ばれました。
薩摩焼は欧米で「SATSUMA」と呼ばれた。フランスではジャポニズムの流れの中で、日本画のようなデザインで鳥や植物を描くなど、薩摩焼の影響を受けた陶器が製作されました。
近年
薩摩焼は、2002年1月に伝統的工芸品としての国の指定を受け、2002年7月には伝統的工芸品としての振興計画について経済産業大臣の認定を受けており、2007年1月『薩摩焼』は鹿児島県陶業協同組合によって商標登録されました。2007年11月には、万博初出展140周年を記念し、フランス国立陶磁器美術館(セーヴル美術館)において「薩摩焼パリ伝統美展」が開催されました。
(薩摩焼 絵付け)
====================
次回は 第15回「信楽焼」
(担当 A)
====================