『全国の焼き物』第15回 信楽焼 | 奈良の鹿たち

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『全国の焼き物』

第15回

信楽焼(しがらきやき)

 

信楽焼は、滋賀県甲賀市信楽町を中心に生産されている陶器。たぬきの置物が有名だが、かつては甕、壺、すり鉢、近代以降は火鉢や傘立て、浴槽やタイルなど、時代に合わせて人々の暮らしを支える器や道具として発展してきました。

 

(特徴)

長い歴史と文化に支えられ、伝統的な技術によって今日に伝えられて、「日本六古窯」のひとつに数えられています。信楽特有の粘り気のある良質な土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として“わび・さび”の趣を今に伝えています。信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されています。

信楽の郷には、無尽蔵といってもいい豊富な陶土があります。主に使われているのは、「木節粘土」という黒色粘土と、「蛙目粘土」という白色粘土です。このふたつの粘土をそのまま成形し、無釉薬で焼締めると、地肌は渋い「火色・緋色(ひいろ) 」となり、粘土に含まれていた長石などの粒が器の表面に白い粒となってぶつぶつと噴き出してくる「石ハゼ」が生まれます。さらに高温でじっくり焼くことで土の中に含まれる成分が窯のなかで炎の勢いにより器物に灰がふりかかり、その灰が溶けて発色する「自然降灰釉(ビードロ釉)」が出てきます。また、薪の灰に埋まり黒褐色になる「焦げ」など人の手で100%コントロールできない土と火が生み出す美しさに着目し、茶の湯の世界で愛されてきた歴史もあります。

信楽焼の焼かれた甲賀地域(滋賀県最南部)は、伊賀地域(三重県)と隣接し、そのため信楽焼と伊賀焼は雰囲気がよく似ているといわれるが、これは同じ古琵琶湖層の粘土層を利用しているためで、「古信楽」と呼ばれる信楽特有の土味を発揮して、素朴であたたかい情感は、この古琵琶湖層の粘土にあるといえます。「古信楽」にはしばしば見られる特徴的な窯変の現象もあります。器面の素地が荒く、細かな石粒(石英粒や長石粒、珪砂)などが多く含まれていることも特徴の一つといえます。

(室町時代の古信楽「大壺」)(所蔵:滋賀県立陶芸の森)

灰釉の他にも、植木鉢や火鉢に見られる「なまこ釉」など、絵付の商品が少ないためか釉薬の種類が多いことや、大物づくりの成型、乾燥、焼成技術なども信楽焼の代表的な特徴です。また、作家によって、焼き〆や粉引など実にバラエティーに富んだ焼き物を楽しめる事も信楽焼の特徴に挙げられます。従って、現代の信楽焼は様々な技法が用いられる個性あふれる器であると言えます。

 

(歴史)

信楽は、奈良、山城などの畿内と東海地方とを結ぶ交通路でもあり、茶湯の中核として発展した京、奈良に近いことから、後に茶陶信楽焼が発展した大きな要因と考えられています。また、焼き物に良好な陶土が豊富にあり、陶工たちにとっても理想郷だったといえます。

信楽焼の始まりは13世紀の鎌倉時代に遡ります。

この頃は、常滑焼の技法の影響を色濃く受けていて、壷や甕ばかり焼いていました。14世紀になると、信楽焼独自の作風も確立されていきました。窖窯(あながま)によって甕、壺、鉢など生活に即したやきもの作りが盛んに行われるようになりました。同時代に開窯した瀬戸、常滑、丹波、備前、越前とともに、「日本六古窯(ろっこよう) 」の1つとして、現在に伝わっています。

土味をいかした、ざっくりとした素朴な風合いの信楽焼は、室町・桃山時代以降、茶道の隆盛とともにわび茶の精神性と通じると考えられ、武野紹鴎(たけのじょうおう)が、日用品として使われていたものを「見立て茶器 」(本来別の用途の道具を茶の湯で用いること)として扱われるようになり、茶道具として美的価値を高く評価されました。以後、次第に「見立て」を離れ、茶人の要望に応じた「和物」を焼くようになりました。

江戸時代になって茶道の流行が去り、さらに登り窯が築かれたことにより大規模生産を行うようになりました。茶壺をはじめ、土鍋、徳利、水甕などの日常雑器が大量に生産されました。また、釉薬を使わない焼締製造が古くからの特徴であったが、全国的な施釉陶器の需要に対応するべく、釉薬を用いた生産も始まりました。茶壺が当時の主産品となり、また庶民の暮らしを支える多種多様な生活雑器を生産する一大産地となり発展しました。

明治時代には、新しく開発された「なまこ釉」を使った火鉢生産がはじまりました。火鉢は熱急冷に強いことが評価され人気を呼び、全国シェア1位を誇る主力商品となりました。

またその他、神仏器や酒器などの小物陶器や壺、などの大物陶器も生産され、質量ともに大きな発展を遂げました。

昭和の時代に入り、第二次世界大戦末期には金属不足から陶器製品の需要の高まりとともに、火鉢の全国シェアの80%を占めたが、1950年代後半から1970年代にかけて生活様式の変貌にともない火鉢の需要は減退に見舞われました。しかし、「なまこ釉」を取り入れた高級盆栽鉢や観葉鉢を生み出すなど品種転換、生産主力の変更に成功しました。

近代化にともない、工業用品として糸取鍋や化学工業用の耐酸陶器など、新しい商品の生産が始まりました。鉄道の一般化により増加した旅行者に向けて展開された汽車土瓶を全国に供給したのも信楽でした。

(汽車土瓶)

現在では、日用陶器のほか建築用タイル、陶板、タヌキやフクロウなどの置物、傘立て、庭園陶器、衛生陶器など、大物から小物に至るまで信楽焼独特の「わび」「さび」を残しながら、需要に対応した技術開発が行われ、生活に根ざした陶器が造られ、今日に至っています。

1976年(昭和51年)に国から伝統的工芸品の指定を受けています。

信楽でタヌキの置物が有名になったのは1951年(昭和26年)。信楽に昭和天皇が行幸した際、製作した陶器のタヌキに日の丸の旗を持たせて並べ歓迎しました。このことが報道され、信楽タヌキが全国的に有名になりました。

1970年に開催された大阪万国博覧会のモニュメント「太陽の塔」。その背面にある直径約8mの「黒い太陽」は、信楽焼のタイルでつくられています。「太陽の塔」作者である岡本太郎が、変幻自在な信楽焼の特性と高い技術に着目し採用しました。

また、世界の名画を陶板で原寸大に再現している大塚国際美術館徳島県鳴門市)の大型美術陶板も信楽焼の技術や伝統を生かして制作されています。

 

(信楽の登り窯)

 

 

 

 

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次回は 第16回「瀬戸焼」

 

 

(担当 A)

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