『全国の焼き物』第16回 瀬戸焼 | 奈良の鹿たち

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『全国の焼き物』

第16回

瀬戸焼(せとやき)

 

瀬戸焼は、1000年以上の歴史を持つ日本屈指の窯業地。愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器の総称。瀬戸は、多様な焼き物がつくられ、東日本で広く流通し、「せともの」は、陶磁器の代名詞にもなりました。2017年、瀬戸焼は「日本六古窯」として日本遺産に認定されました。

 

(特徴)

原土は1000年以上前に花崗岩が風化・堆積してできた瀬戸陶土層から採掘。不純物が少なく耐火性が高く、可塑性に富む粘土、ガラスの原料になる珪砂が豊富に含まれます。

世界有数といわれる白く焼き上がる良質で豊富な陶土が、釉薬や絵付けが美しい焼き物を生み出しています。

日本の中でも珍しい、陶器も磁器も焼かれる産地でです。

陶器では国の伝統的工芸品「赤津焼」に代表される釉薬を駆使した装飾が特徴です。

(御深井釉 おふけゆう

 

(古瀬戸釉)

 

(鉄釉)

 

(灰釉)

磁器は同じく「瀬戸染付焼」に代表される呉須と呼ばれる顔料を使った青色が美しい絵付が特徴です。

瀬戸ほど、多種多様な焼き物が焼かれる産地はありません。

平安時代後期から焼き物づくりが始まった瀬戸では、鎌倉~室町時代には「古瀬戸」といった高級品が、江戸時代には石皿や馬の目皿のような日用雑器など幅広い陶器が焼かれました。

江戸時代後期に磁器生産が始まると、磁器を「新製焼」あるいは「染付焼」、陶器を本来の仕事という意味を込めて「本業焼」と称して呼び分けました。

明治時代以降、食器類や装飾具にとどまらず、建築陶材や碍子、自動車の部品といった新しい焼き物も生産され、現在も瀬戸は日本有数の陶磁器産地として君臨しています。

瀬戸は、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯を指す日本六古窯において唯一、施釉陶器が発展した産地です。19世紀に磁器生産が主流となっていくなかで、こうした陶器の手仕事を代々受け継いだ窯元が「瀬戸本業窯」です。

民藝との出会いもあり、使いやすさと、長く使い続けても失われない美しさを兼ね備えた日常の器をメインに手がけています。

淡い黄色の黄瀬戸や織部へ発展する緑釉など、手づくりの釉薬を使った多彩なデザインが魅力。

現在の瀬戸では原土、釉薬などは地元産でほぼまかない、伝統を重んじつつ、新しいテイストも取り入れた焼き物づくりが行われています。

 

(歴史)

5世紀後半の古墳時代中期末に現在の愛知県猿投(さなげ)地区(名古屋市・東山丘陵周辺)に日本三大古窯の一つとされる埴輪・須恵器窯である「猿投山西南麓古窯跡群」が誕生しました。猿投窯は、奈良時代に日本初の人工施釉陶器(灰釉陶器)を生産して高級食器として流通し、古墳時代から鎌倉時代にかけて、窯業の一大生産地となりました。8世紀頃、自然の灰がかかって釉薬の役割を果たす原始灰釉陶器の登場を経て、9世紀には日本で初めて人工的に施釉した灰釉陶器を完成させています。そして、猿投窯の北隣りに位置する瀬戸市でも10世紀後半から灰釉陶器の生産が始まりました。これが「瀬戸窯」の成立とされています。

平安時代後半の11世紀末から量産化によって製品が簡素化・粗略化し、灰釉陶器から無釉の日用雑器(山茶碗)生産へと移っていきました。

陶器と磁器の両方を手掛ける瀬戸には、始祖が2人います。

「陶祖」:加藤四郎左衛門景正(通称:藤四郎)は、中国に渡って陶法を学び、帰国後に瀬戸で陶業を興した。

「磁祖」:加藤民吉は、九州有田で習得した製磁技術を瀬戸へ持ち帰り、染付磁器の改良・発展に大きく貢献したことが称えられている。

伝説では中国の宋で陶法を学んできた陶祖・加藤四郎が1242年、瀬戸で窯を築いたのが始まりとされていますが、実際には平安時代中期、広久手古窯跡群での灰釉による施釉陶器が始まりです。平安から鎌倉時代にかけて日宋貿易の興隆によって陶磁器が宋から日本に大量に輸入されると、これまでの国産灰釉では品質的に太刀打ちできなくなってきました。

(古瀬戸の壷)

鎌倉時代の製品には優美な印花文や画花文を施したものが多い。11世紀の室町時代になると灰釉陶器に代わり、無釉の椀・皿・鉢を主体とする山茶碗(やまぢゃわん)が量産されるようになります。室町時代末頃までのものは「古瀬戸」とよばれます。「古瀬戸」様式の器種は中国から輸入される磁器を模倣したものが多く、代用品として生産・流通したと見られます。

この時代のいわゆる「古瀬戸」の手法は、紐づくりをして、別に挽いた口頸部を付けてから、外部の全体を轆轤で仕上げるやり方です。灰釉や鉄釉を施し、「胎土の柔らかいうちに印を押して陰文を施す陰花文」「ヘラ・釘・櫛などによって彫りつける画花文」「粘土を器全体に張り付ける貼花文」などで陶器を飾るようになります。

戦国時代には、美濃などの各地で瀬戸ものが焼かれるようになってきました。この時代には様々な形の瀬戸ものが焼かれ、柳茶碗・灰釉ぐい呑・鉄釉皿・志野碗・瀬戸黒沓茶碗などが古窯から発見されています。

桃山時代から、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部などの茶器が茶の湯の隆盛に伴って多く焼かれ、日用雑器も作られるようになりました。この頃に侘び茶が完成し、唐物から和物の中に美を見いだし茶会を変革させました。
瀬戸の茶壺・茶入れは茶人の鑑賞に十分耐えうる品格まで磨き上げられました。

瀬戸窯と美濃窯では大量生産を目指して新しい形式の窯への転換が行われました。15世紀後半に丘陵斜面を利用した地下式の窖窯(あながま)から地上式の大窯に変わり、17世紀初め頃に連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)が導入されました。

また戦国時代(16世紀後半から17世紀初め)、瀬戸窯は一時衰退する。窯業生産の中心は瀬戸から美濃へ移り、陶工達は離散(瀬戸山離散)。瀬戸の陶工たちが移った美濃では黄瀬戸や瀬戸黒、志野といった斬新な焼き物が生まれました。

1610(慶長15)年、初代尾張藩主徳川義直が離散していた陶工達を美濃から呼び戻したことで、瀬戸は再び活気を取り戻しました。

江戸後期(1807年)、瀬戸でも磁器生産が始まるが、有田の磁器に劣っていたため、肥前国有田から素地土の精製や釉薬の調合、築窯や焼成法など染付磁器を学んできた加藤民吉が瀬戸に戻り、瀬戸の磁器技術は急速に発展しました。すぐに、磁器は陶器生産をしのぐ勢いになり、磁器が主流となりました。

瀬戸では旧来の陶器を「本業焼」、磁器を「新製焼」と呼ぶようになりました。

(加藤民吉 新製焼)

陶器は生き残りをかけて、現在までも続く石皿や馬の目皿を始めとした独自の製品を生み出しました。

明治時代には政府の殖産興業・輸出振興政策によって輸出用に美麗な陶磁器が作られ、「瀬戸素地」に絵付けだけ東京や横浜で行われることもありました。万国博覧会への参加が試みられ、1873(明治6)年のウィーン万博、1876(明治9)年のフィラデルフィア万博、1878(明治11)年のパリ万博に、瀬戸からも積極的に出品がなされ、高い評価を得ました。

また、万博への参加によって欧米の最新技術が伝来するとともに、新たな海外市場が開拓されていきました。

織部のコーヒーセット・ポット・洋皿・陶製玩具・装飾品など、これまでの反動により本業が多く貿易にも使われるようになりました。
戦後日本経済の復興とともに瀬戸の陶磁器も立ち直り国内外で隆盛を迎えました。

石炭窯や動力ロクロが導入されて大量生産が可能となり、新たな技術・製品の研究開発も積極的に行われたことで、タイルや衛生陶器、碍子、ノベルティなどの新しい焼き物も登場。

瀬戸窯業の機械化・大量生産化が進む一方、焼き物の芸術性を高める陶芸分野も成立し、「陶都瀬戸」が確立していきました。

こうして1970年代には、瀬戸窯業は最盛期を迎えました。
今日では「より多く、より安く」の過当競争に終止符を打ち、瀬戸には何でもある特色と瀬戸らしさも生まれてきました。

 

(瀬戸蔵セラミックプラザ)

 

 

 

 

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次回は 第17回「丹波焼」

 

 

(担当 A)

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