『全国の焼き物』
第8回
織部焼(おりべやき)
織部焼は、千利休の弟子で大名茶人の古田織部が指導して作られました。奇抜で斬新な形、文様が特徴です。志野焼や黄瀬戸と共に「美濃焼」と呼ばれることもあります。
織部焼の特徴はその斬新さにあります。あえて歪な形状を施し、市松模様や幾何学模様といった大胆な文様を施す趣向は、それまでの整然とした茶器とは大きく異なる点でした。織部焼は大量生産される一方で、文様はひとつとして同じものはありません。
(特徴)
(色):釉薬の色になどにより、織部黒・黒織部、青織部、赤織部、があります。その中でも一番有名なのは、緑色の青織部です。織部黒・黒織部は茶碗がほとんどであり、それ以外は食器類が大半を占めます。
(形・文様):端正な整然とした形で、抽象を重んじる他の茶器とは一線を画します。歪んだ形の沓茶碗。絵付けは市松模様や幾何学模様。後代になると、扇子などの形をした食器や、香炉が多くなります。
(生産技術):初期からの連房式登窯の利用や、湿らせた麻布を木型に張り、そこに伸ばした粘土を押し付けるという手法で、少し前の志野焼と比べ大量生産が行われました。そうした量産化された茶碗でありながら、同じ作振り、同じ模様で描かれたものはありません。
(釉薬):一般に「織部釉薬」といった場合は、透明釉薬に酸化銅などの銅を着色料として加え酸化焼成したものをいいます。
(織部焼の種類)
「靑織部」
器の一部に銅緑釉をかけたもの。織部焼の中では最もポピュラーで代表作と言われる。
「黒織部」
銅緑釉のかわりに黒釉をかけたもの。余白の部分には鉄絵を施す。
「総織部」
器の全体に銅緑釉をかけたもの。
「織部黒」
器の全体に黒釉をかけたもの。
「鳴海織部」
白土と赤土を組み合わせ、白土に緑釉をかけ、赤土の箇所には文様を描く。色彩が豊かであるため、「名産」と呼ばれるものが多いのが特徴。
「赤織部」
赤土をベースに、白泥で絵や縁取りを施したもの。
「志野織部」
志野焼と織部焼の中間にあたる作品。
「絵織部」
銅緑釉を掛けることなく、白地に鉄絵の文様を施したもの。
「伊賀織部」
部分的に白泥をかけ、伊賀焼では青緑色のビードロが用いられるところに鉄釉を流したもの。
「唐津織部」
絵唐津に倣って作られた作品。織部焼には唐津焼の窯が導入されたが、唐津織部は織部と唐津の結びつきを感じさせる。
(歴史)
桃山時代の1605年(慶長10年)頃、美濃地方の岐阜県土岐市付近で始まり1615年~1624年(元和年間)まで、主に美濃地方で生産された陶器。美濃焼の一種ですが、志野焼の後につくられました。
千利休の弟子であった大名茶人、古田織部の好みの奇抜で斬新な形や文様の茶器などを多く産した。織部焼の元と言われているのが、中国南方から南蛮貿易でもたらされた趾焼(華南三彩)です。大量生産をする為、唐津から連房式登窯を導入したと伝えられる。代表的な窯は、元屋敷窯です。窯が開かれた直後の慶長年間(1596〜1615年)が最盛期でした。この時期に造られた物に優品が多い。織部焼には京風の意匠が用いられたことや、1989年京都三条から大量の美濃焼が発掘されたことから、主に京都の三条界隈で販売されたことが想定されます。当時の三条界隈には「唐物屋」と呼ばれる陶磁器や絵画、染織を売る道具屋が軒を連ねていて、織部焼もここで売られていました。織部焼には、しばしば唐津焼と共通した文様が見られるが、これは唐津にも唐物屋から発注されていたことから起きる現象であろうと思われます。また、織部茶入というものが大量に伝わっており、美濃地方の他に九州の薩摩焼・高取焼などでも焼かれています。
この時期の代表的作品として、弥七田窯で焼かれた弥七田織部があげられます。弥七田織部は織部焼に特徴的な暗緑色の緑釉を殆ど用いず、形もより斬新さを失っています。元和末年から寛永初めになると、古典的青磁の復興を目指した黄緑色から淡青色の御深井(おふけ)釉を用いた御深井焼が本格化しました。その一方で、創始者である古田織部が豊臣方への内通の疑いをかけられて1615年に切腹したことを契機に、織部焼は衰退していきます。中之町発掘の美濃焼は改元直後に急いで廃棄された形跡があり、寛永期には姿を消しました。
ただし、織部焼という名称が用いられるようになったのは、織部死後しばらく後の寛文年間頃からであり、一般に広まるのは元禄に入ってからです。
(織部の里公園)
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次回は 第9回「小鹿田焼」
(担当 A)
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