『全国の焼き物』第4回 有田焼・伊万里焼② | 奈良の鹿たち

奈良の鹿たち

悠々自適のシニアたちです

 

『全国の焼き物』

第4回

有田焼・伊万里焼

 

(鍋島焼)

1675年、鍋島藩御用窯が大川内山(おおかわちやま、佐賀県伊万里市南部)に移されました。

しかし、技術が外部に漏れることを怖れた藩により、三方を険しい山で囲われ、開口部に関所が設置されました。技術を守るために完全に外界から隔離され、職人は一生外部に出ることはなく、外部から人が入ることも極めて希であるという極めて閉鎖的な社会が形成されました。

生産された磁器は藩が専売制により「御用品」として全て買い取り、朝廷・将軍家・諸大名などへ献上する高品位な焼物が焼かれていました。これが今に伝わる「鍋島焼」です。しかし、磁器生産は全国窯業地の憧れであり、ついに1806年に瀬戸の陶工加藤民吉が潜入に成功し技術が漏洩する。以降、瀬戸でも磁器生産が開始され、東日本の市場を徐々に奪われていき、江戸末期には全国の地方窯でも瀬戸から得た技術により磁器の生産が広まっていきました。

鍋島焼の伝統は1871年(明治4年)の廃藩置県でいったん途絶えたが、その技法は今泉今右衛門家によって近代工芸として復興され、21世紀に至っています。

(鍋島焼 御用品 色絵芙蓉菊文皿)

(鍋島焼 色絵雪花墨色はじき果実文花瓶)(人間国宝 第14代今泉今右衛門)

 

 

歴史3.海外への輸出

この時代の磁器といえば、中国の「景徳鎮磁器」であった。優れた品質が世界的に認められており、日本でも盛んに輸入していました

磁器生産の先進国であった中国では1644年、明から清への王朝交代に伴う内乱の影響で輸出が激減し1656年には海禁令が出されました。商船の航行が禁止され、中国で最高技術を誇っていた景徳鎮(けいとくちん)窯が衰えたりして中国陶磁の輸出が一時途絶えました。中国の磁器輸出激減の影響は日本だけでなく、それまで中国磁器を輸入していた世界の国々に影響を及ぼしました。

1640年から鎖国時代を迎えていた日本では、幕府から貿易を許されていたのは、中国とオランダのみでした。1647年には中国商人によってカンボジアに伊万里磁器が輸出されました。

このような情勢を背景に日本製の磁器が注目され、東南アジア向けの輸出で、インドネシア、タイ、ベトナムなどでの遺跡の出土資料からも日本の磁器が使われていたことがうかがえます。

この時期はまだ、国内向けに作られたものの中から選ばれたものが買われ、運ばれていたようです。

1650年(慶安3年)初めてオランダの東インド会社が有田焼を買い付けました。彼らは中国製陶磁器を見本としてヨーロッパ人の好みに合う製品を制作するように依頼し、伊万里焼の海外への輸出が始まりました。1644年から1650年代前半にかけて、有田では中国の磁器や絵手本の真似をし、飛躍的な技術革新を遂げました。景徳鎮の製品を見本としたオーダーや西洋独自の生活用品づくりの依頼が次々と舞い込むようになりました。

これによって品質水準が確認され、技術の向上を見届けたオランダは、1659年に有田磁器の本格的ヨーロッパ輸出に踏み切りました。以降、東インド会社は毎年のように大量の注文を行うようになりました。ヨーロッパへは,伊万里津から長崎の出島へ向かい,そこのオランダ商館を通じて輸出されたといわれています。また,朝鮮半島へは対馬藩を通じて輸出されました。

(色絵 牡丹文蓋付壷)

これら輸出製品の中には、オランダ東インド会社の略号VOCをそのままデザイン化したもの、17世紀末ヨーロッパで普及・流行が始まった茶、コーヒー、チョコレートのためのセット物の陶磁器までありました。ヨーロッパでの古伊万里は、それ自体を愛でるというより、宮殿を装飾するインテリアとして用いられていました。

(染付芙蓉手VOC(東インド会社)ロゴ入)

今もなお、宮殿・邸宅に多くの有田磁器が残されていることからも珍重されていた様子がうかがえます。1659年に始まった有田磁器の本格的ヨーロッパ輸出は、1684年の中国の輸出再開による輸出競争、ヨーロッパ各地で起きた戦争や内乱の時代を経て、公式輸出が終わる1757年までの約100年間続きました。

中国が輸出を再開した頃から、景徳鎮窯の生産・輸出が再開され軌道に乗るにつれて厳しい競争に晒されることとなりました。東南アジア方面の市場は中国製磁器に奪還されたが、ヨーロッパ方面への伊万里焼の輸出は継続しました。江戸幕府が1715年に貿易の総量規制を行った事から、重量・体積の大きい陶磁器は交易品として魅力を失いました。最終的には1757年にオランダ東インド会社に対する輸出は停止されました。以降は日本国内向けの量産品に生産の主力をおくことになりました。輸出で培った技術や意匠を生かしながら、形や文様を日本人好みに移行する動きが始まりました。17世紀には一部の富裕層のものであった有田磁器も、この頃には文様の簡略化など大衆化が図られ、国内需要に応えられるようになっていました。こうして庶民の暮らしにも浸透し、江戸の食文化に欠かせない器として国内市場に出回るようになったのでした。

今日の我々が骨董品店などで多く目にするのは、こうした18世紀の生産品であることが多い。

 

歴史4.近代の有田焼

明治維新後は、廃藩置県にともない藩による閉鎖的管理が終わり、有田磁器の製造と販売が自由化されました。輸出再開に向けて、西洋で好まれる大ぶりな花瓶や洋食器の製造が始まりました。西洋の磁器技術も積極的に取り入れ、新しい有田磁器が生み出されていきました。すでに幕末から、佐賀藩によってパリ万博へ出品されるなど、いち早く近代化を図っていた有田磁器でした。

19世紀には、明治新政府の殖産興業の推進役として香蘭社は、各国で開催された万国博覧会に出品し、外貨獲得に貢献する有田焼に期待が集まりました。

1897年には、有田へ鉄道が開通。直接出荷ができるようになると「有田焼」の名称が一般化するようになりました。

 

(佐賀県立九州陶磁文化館)

 

 


 

 

 

====================

次回は 第5回「伊賀焼」

 

 

(担当 A)

====================