『全国の焼き物』第3回 有田焼・伊万里焼① | 奈良の鹿たち

奈良の鹿たち

悠々自適のシニアたちです

 

『全国の焼き物』

第3回

有田焼(ありたやき)・伊万里焼(いまりやき)

 

(特徴)

佐賀県西部で17世紀に日本で初めて作られた磁器。キメが細かくなめらかな手触り、透き通るように白い磁肌と藍色の顔料で描いた染付け、ガラス質の上絵具 (赤、緑、黄、紫、青)を用いた華やかな赤絵が特徴。耐久性が高く、美術品から日用品まで様々なものが生産されている。またどちらも陶石から作られた磁器のために薄く軽くても、実は陶器よりずっと丈夫で堅く耐久性に優れており、かつ滑らかです。
 

「有田焼」と「伊万里焼」

近世初期以来、有田、三川内(みかわち)、波佐見(はさみ)などで焼かれた肥前の磁器はほぼ同じもので、江戸時代には伊万里港を積み出し港としたため「伊万里焼」と呼ばれていました。また英語での呼称も "Imari" が一般的でした。また江戸時代初期の『毛吹草』には「唐津今利の焼物」とあり、唐津は土もの(陶器)、今利(伊万里)は石もの(磁器)を指すと考えられています。現在の三川内焼や波佐見焼ですら、有田焼や伊万里焼の名前で販売されていたこともありました。

近代以降、輸送の主力が船から鉄道に変わって、生産地での呼び名が使われてから伊万里市内で製造されているものを「伊万里焼」、有田町で製造されているものを「有田焼」と大別しています。

 

「伊万里焼」と「古伊万里」

「古伊万里」は伊万里で焼かれたものではありません。江戸時代に有田で焼成された歴史的、骨董的価値のある作品を、「古伊万里」と呼びます。

明治初期に焼き物を産地名で呼ぶようになり、現在の佐賀県伊万里市で焼成された陶磁器のことを「伊万里焼」と呼ぶことになりました。「古伊万里」は中国で明から清への変革混乱時期に、中国磁器に代わる最良の品として生まれ、欧州へと輸出されることになりました。「古伊万里」はヨーロッパの王侯貴族達に愛され、今でもオールドイマリ(Old Imari)として世界中に熱烈なコレクターが存在します。

 

(歴史)

歴史1.磁器生産の開始(初期伊万里)

日本では中世までのやきものは陶器であり、磁器は輸入品に頼っていました。

肥前磁器の焼造は17世紀初期から始まりました。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際(文禄・慶長の役、1592年~ 1598年)、肥前の領主・鍋島直茂に連れてこられた朝鮮の陶工たちの一人であった李参平は、1616年(元和2年)(1604年説あり)に有田東部の泉山で磁器の上質な原料となる白磁鉱を発見し、有田東部の天狗谷窯で磁器焼造を始めたとされています。

有田町では李参平を「陶祖」として尊重し祭神とする陶山神社(すえやまじんじゃ)もある。

陶工たちは有田に定住し、李朝様式から中国様式、染付、白磁、青磁といったさまざまな手法を次々に消化しながら、磁器の製法に磨きをかけていきました。

この頃の有田では、当時日本に輸入されていた中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器を作っていました(「初期伊万里」)。「染付」は中国の「青花」と同義で、白地に磁器の生地にコバルト系の藍色の顔料絵具である「呉須」(ごす)で図柄を描き、藍色一色で図柄を表した磁器です。その後釉薬を掛けて焼造します。絵付けの前に素焼を行わない「生掛け」技法を用いている点も特色です。図柄は中国製品に学んだと考えられ、絵具の呉須も中国人から入手したものと考えられています。

初期の磁器は、「砂目積み」という技法が使われていました。「砂目積み」とは、窯焼き時に製品同士の熔着を防ぐために砂を挟む技法で、朝鮮から渡来の陶工が生産に携わりました。

1637年(寛永14年)に焼き物産業推進方針を決めた鍋島藩は、伊万里・有田地区の窯場の統合・整理をし、多くの陶工を廃業させて、窯場を有田の13箇所に限定しました。こうして有田皿山が形成されました。陶石を精製する技術(水漉)が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く、皿径と高台径の比がほぼ3対1の、いわゆる三分の一高台が多いことが特徴です。

1650年(慶安3年)頃の作品は、染め付け呉須のみで仕上げられたシンプルで厚みのある焼き物です。この頃はまだ上絵付がされておらず、1647年(正保4年)に初代酒井田柿右衛門により上絵付がなされるようになりました。
1610年代から1650年代頃までの初期製品を「初期伊万里」と称します。

この「初期伊万里」は絵付けの発色が安定せず、生地も厚く歪みや押指の跡が残るなど粗雑な部分があり、次第に九谷焼や柿右衛門などに押され市場から姿を消してしまいました。

(染付唐人文大皿)

(染付 獅子牡丹文 大瓶)

 

歴史2.色絵・金襴手磁器の登場・発展(古伊万里)

(色絵)

その後1640年代に中国人陶工によって技術革新が行われ、一次焼成の後に上絵付けを行う「色絵」磁器が有田西部の山辺田窯(やんべたがま)などで焼成されるようになりました。

国内向けの大皿などの色絵磁器製品が生産されました。1600年代の寛永年間に伊万里焼は,まず関西方面へ広まり、さらに江戸や関東方面へも広がりました。 国内への流通が盛んになると,伊万里焼は日本国中で使われるようになりました。武士や公家など一部のお金持ちの人びとだけでなく,多くの人びとに磁器の器が広まりました。今でも,東北や北海道などに,「北前船」で運ばれた江戸時代の伊万里焼の茶碗や皿が数多く残っています。

1646年(正保3年)には酒井田柿右衛門(さかいたかきえもん)らが、赤、緑、黄などの絵の具で文様を描く赤絵付けに成功し、いわゆる「柿右衛門様式」日本初の色絵磁器を生み出したとされています。1650年代末には、有田の技術は景徳鎮磁器と遜色ないまでに向上しました。有田での磁器生産が始まってから、わずか30〜40年ほどの間のことでした。

1660年代から生産が始まったの色絵磁器は、「濁手(にごしで)」と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした左右非対称な絵画的な文様を上絵付で描いたものです。この種の磁器は初代酒井田柿右衛門が発明したものとされているが、研究の進展により、この種の磁器は柿右衛門個人の作品ではなく、有田の窯場で総力をあげて生産されたものであることが分かっています。(柿右衛門様式は輸出に主眼が置かれていた)。17世紀後半には、技術の進歩により純白に近い生地が作れるようになり、余白を生かした柿右衛門様式の磁器は輸出用の最高級品として製造されました。特徴的な赤絵の柿右衛門様式は、マイセンなどでも模倣されていました。

(初代酒井田柿右衛門作 色絵花鳥文深鉢)

 

(金襴手様式)

1688年(元禄1年)になると赤や金を使った、華やかな金襴手様式(きんらんでようしき)が生まれ、焼き物の全面に模様が描かれるようになりました。絵付した後,金を焼き付けて文様を表したもので,赤絵,色絵に施す金彩との配色が織物の金襴(金糸で文様を織り出した織物)と似ているところからこの名が出ました。16世紀中ごろ中国江西省景徳鎮民窯で作られ発達、江戸時代中期に日本に持ち込まれ白磁をベースに赤地に金彩で文様を表す金襴手が流行しました。

17世紀末頃からは、ヨーロッパ好みに合わせて豪華絢爛な「金襴手」が製造され、これを「古伊万里金襴手」と称し輸出されるようになりました。

(金襴手大盛皿)

また「雪のように白い」素地は東インド会社の厳しい要求にこたえようと陶工たちが開発を重ねた結果でした。

(色絵 岩松竹梅鳥文 輪花皿)

 

 

====================

次回は 第5回「有田焼・伊万里焼②」

 

 

(担当 A)

====================