『古墳』
第2回
「前方後方墳」
(ぜんぽうこうほうふん)
前方後円墳の後円部を方形にした古墳の墳形の一種。
東海地方では、3世紀前半の弥生時代終末期頃から前方後方墳の祖形である方形周溝墓が造られ始めました。方形墓の周壕が一周するものや、方形の一辺に突出状の祭壇を設ける墓が多く造られました。そしてやがてその際壇部や陸橋部が発展し前方後方形が出現しました。
方形周溝墓から前方後方墳の出現(赤塚氏)
方形周溝墓から前方後方墳への成立に濃尾平野が重要な役割を果たしたと考えられています。愛知県一宮市の西上免古墳(にしじょうめんこふん)(現在は、埋め戻され公園となっている)の方形周溝墓が前方後方墳の祖形と考えられています。
東日本の出現期古墳の多くは、前方後方墳であることが分かってきました。
前方後方墳は伊勢湾沿岸で誕生し、各地にもたらされたと考えられています。
現在、全国には約250基の前方後方墳が認められます。
東北、北陸、関東から大和、播磨、出雲と全国的な広がりを見せています。
しかし、発生は東海地方でも大規模なものは近畿(大和)に集中しており、100mを超える規模の大きな前方後方墳5基が大和にあり、日本最長の前方後方墳は天理市の西山古墳(183m)です。
これをどう捉えるか?
前方後円墳と前方後方墳の存在について、いろいろな学説がありますが、まだ十分解明されていません。
西嶋定生氏は墳形が身分秩序を示し、カバネの中でもオミを表すのが前方後方墳であるという。
都出比呂志氏は墳形と規模から前方後方墳は、前方後円墳体制という政治秩序の中では少数派的なあり方であると考えています。
白石太一郎氏は前方後方墳を狗奴国の系譜と見る説です。
東海地方に前方後方墳の起源を求める説は赤塚次郎氏らによって主張されてきました。
広瀬和雄氏は、墳丘規模がどの地域においても前方後円墳が前方後方墳を上回ること、東国においても前方後円墳と前方後方墳が併存していること、前方後円墳だけでなく前方後方墳でも最大規模のものは畿内に存在すること、副葬品に前方後円墳と前方後方墳に差がないことをあげて、畿内と東国との二項対立説を退け、前方後円墳と前方後方墳の違いは「首長層の政治的なランク付け」の反映であるとしています。
一般的な説として、政治勢力としては、西日本は邪馬台国を中心とした政治連合であり、東日本は濃尾平野の狗奴国を中心として形成された政治連合であったが、東の狗奴国中心の連合は、西日本の邪馬台国連合ほど強固な連合ではなかったとしています。また、この濃尾平野の勢力は、『魏志』倭人伝に記載のある倭の女王卑弥呼の邪馬台国と闘った狗奴国との関係を想定する学者もいます。
●西山古墳(にしやまこふん)(奈良県天理市)
墳丘の長さ183m、日本最大の前方後方墳。
築造時期は古墳時代前期(4世紀)。
一段目は前方後方墳、二段目は前方後円墳。
●前橋八幡山古墳(まえばしはちまんやまこふん)(群馬県前橋市)
墳丘の長さ130m、日本で2番目の大きさ。
築造時期は4世紀の半ばから後半。
●大安場古墳(おおやすばこふん)1号墳(福島県郡山市)。
墳丘の長さ約83m・東北地方最大。
築造は4世紀後半頃。
●浅間古墳(せんげんこふん)(静岡県富士市)
墳丘の長さ98m、県東部伊豆地方最大。
築造は古墳時代中期の4世紀末から5世紀初頭。
●山代二子塚古墳(やましろふたごづかこふん)(島根県松江市)
墳丘の長さ94m、出雲最大。
築造は6世紀中葉。
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次回は第3回「円墳」
(担当 H)
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