『おくのほそ道』
第46回「天竜寺・永平寺」
(てんりゅうじ・えいへいじ)
(道元禅師の御寺 永平寺)
(天竜寺・永平寺 元禄二年八月十日)
<第46回「天竜寺・永平寺」>(原文)
丸岡天龍寺の長老、古き因あれば尋ぬ。
また金沢の北枝と云う者、仮初めに見送りて この所まで慕い来る。
所々の風景 過ぐさず思い続けて、折節 あわれなる作意など聞こゆ。
今既に別れに臨みて、
五十町 山に入りて、永平寺を礼す。道元禅師の御寺なり。
邦畿千里を避けて、かゝる山陰に 跡を残し給うも、貴きゆえ ありとかや。
(現代語)
丸岡天龍寺の長老・大夢和尚は古くからの知り合いゆえに彼を訪ねた。
また、金沢の北枝は、ちょっとそこまで送るつもりだったのが、ついにここまで慕って送ってきてくれた。道すがら方々の風景も見逃さずに句を案じ続け、時々は情緒ある作をも聞かせてくれた。
いま、別れに当たって、
「物書て 扇引さく 余波哉」
寺領の入り口から五十町もある山内を通って、永平寺を拝観した。ここは道元禅師開基の寺である。都を離れて、俗塵にまみえるのを避けて、このような山陰に道場を残したのだが、貴い理由が有ってのことだったという。
(語句)
●「丸岡 天龍寺」:清涼山・天龍寺。「丸岡」は「松岡」の誤記。この後に訪ねる永平寺の末
寺。
●「長老」:大夢和尚のこと。もとは江戸品川天龍寺の住職だった人で芭蕉とは知己であった。
●「北枝(ほくし)」:立花氏。通称、「研屋・源四郎」。このたび蕉門に入門し蕉門十哲の一
人。加賀の蕉門の中心人物になる。山中温泉や那谷寺へも同行し、ここまで慕ってついて来た
ものと思われる。三週間くらい随行していた。
●扇引き裂く:この日が八月九日だとすると、現在の9月22日頃になり、そろそろ扇子の要ら
なくなる頃。捨て扇なら秋の季語になるが、実際に扇を引き裂いた訳ではなく、別れの句を書
いた扇子を北枝はもらっている。
●「所々の風景過さず思ひつヾけて」:道々の情景の一つ一つを見過ごすことなく句作にふけり
ながら、の意。
●「折節あはれなる作意など聞ゆ」:北枝は、しばしばすばらしい作品を見せてくれた。
●「今既別に望みて」:いま、北枝と別れるに際して。「望み」は「臨み」の誤字。
●「五十町 山に入りて」:一町は110mほどだから、5km半ほど山に向かい。これは山門を
入ってから本堂までの距離。
●「永平寺」:大本山・永平寺。曹洞宗の開祖・道元禅師が寛元2年(1244)年開いた坐禅の修
行道場。
●「道元禅師」:鎌倉時代初期の禅僧。日本の曹洞宗の開祖。比叡山で天台宗を、建仁寺で禅を
学んだ。1223年入宋。帰国後、京都深草に興聖寺を開く。久我通親の子。1244年越前に移
り、大仏寺(のちの永平寺)を開創。修証一如・只管打坐(しかんたざ)の純一の禅風で知られ
る。著「正法眼蔵」など。
●「邦畿(ほうき)千里を避け」:「帝都」という意味で、繁華な都を避けたということ。京都
から千里以上も離れての意。
●「貴きゆえあり」:『初め寺地を京師にて給らんと有しを、(道元)禅師の云う、「寺堂を繁
華の地に営ては、末世に至り、僧徒或は塵俗に堕する者あらん歟(か)」、と固く辞して、終
(つい)に越前に建立すと云う。』(「奥の細道・菅菰抄」)
(俳句)
物書きて 扇引き裂く 余波かな
夏使っていた扇は無駄書きして引き裂いて捨ててしまうが、いざとなると名残惜しくて
引き裂けない。(北枝との別れが名残惜しくて別れつらい)
(写真)
====================
次回は 第47回「福井の等裁」
(担当H)
====================




