『おくのほそ道』 第39回 那古の浦 | 奈良の鹿たち

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『おくのほそ道』

  第39回「那古の浦」

(なごのうら)

 

(那古の浦)

(那古の浦 元禄二年七月十四日)

 

<第39回「那古の浦(なごのうら)」>(原文)

黒部(くろべ)四十八(しじゅうはち)()とかや、数知らぬ川を渡りて、那古(なご)と云う(うら)()づ。

坦籠(たご)藤波(ふじなみ)は、春ならずとも、初秋(はつあき)(あわ)れ ()ふべきものを と、人に(たず)ぬれば、(これ)より五里 磯伝(いそづた)いして、向こうの山陰(やまかげ)()り、(あま)笘葺(とまぶ)き かすかなれば、(あし)一夜(ひとよ)の宿 貸す者あるまじ」と云い(おど)されて、加賀(かが)の国に()る。

  早稲(わせ)の香や 分け入る右は 有磯海(ありそうみ)

 

(現代語)

黒部四十八ヶ瀬と言われているが、沢山の川を渡って、那古の浦に出た。(「多胡のうらの底さへ匂ふ藤なみをかざして行ん見ぬ人のため」と詠われた)担籠の藤波は今は春ではないが、初秋の風情を訪ねてみたいと、人に道を尋ねると、「(担籠の藤波は)ここから五里(20km)、磯伝いに行って、向こうの山陰に入って、漁師の粗末な小屋がまばらなところなので、一夜の宿すら貸す者はいないのではないか」と言いおどされて、あきらめて加賀の国へ行くことにした。

  「わせの香や分入る右は有磯海」

 

(語句)

●「黒部四十八が瀬」:急流である黒部川は、かつて扇状地を幾重にも川筋が分かれていたこと

 からそう呼ばれ、難所としても知られていた。
●「那古(なご)と云う浦」:富山湾に面した現在の射水市(いみずし)の海岸線。奈呉の浦 とも。

 歌枕になっていて、『東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の 釣する小

 舟(をぶね)漕ぎ隠る見ゆ』(万葉集・大伴家持)
●「坦籠(たご)の藤波(ふじなみ)」:「坦籠(たご)」は現在の富山県氷見市に「田子浦藤波神社」

 があって藤の名所だった。「坦籠(たご)」も歌枕で、『多祜の浦の 底さへ匂ふ藤波を かざ

 して行かむ 見ぬ人のため』(「万葉集」)藤波を詠んだ歌には大伴家持の句もあって、『藤

 波の 影なす海の底清み 沈(しず)く石をも 珠とぞ我が見る』(「万葉集」)  

●「初秋の哀とふべきものをと」:秋には秋のまた別の「あわれ」もあるだろうから、の意。

●「蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿貸す者あるまじ」:貧しい漁村のことだから、宿を

  かす人も居ないでしょう、というので、立ち寄らずに加賀の国に行った、というのだが、実

 際は越中で2泊もしている。

●「云い脅されて、加賀の国に入る」:芭蕉は結局、奈呉から少し南下してその日は高岡に泊

 り、翌日から金沢に一週間ほど滞在し、能登の方へは行っていない。
●「早稲(わせ)の香や」:黒部四十八が瀬を渡ったのが七月十三日、氷見の方へ行こうとしたの

 が十四日で(現在なら8月28日)、早い所なら稲穂が実り始める頃。
●「有磯海(ありそうみ)」:同じ富山湾でも、奈呉の浦より西側の、氷見寄りの海岸線をそう呼

 ぶ。芭蕉はそちらへは行かず、左の金沢方面への道を南下した。

 

(俳句)

  「早稲の香や 分け入る右は 有磯海」
    早稲の香が立ち込める中、田んぼの道を踏み分けるようにして行くと、右手に古歌に名

    高い有磯海が望み見られる。

 

(写真)

   

 

 

 

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次回は 第40回「金沢」

 

 

(担当H)

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