『おくのほそ道』
第37回「越後路」
(えちごじ)
(越後路 日本海)
(越後路 元禄二年六月二十七~七月十二日)
第37回「越後路」 (原文)
酒田の余波 日を重ねて、北陸道の雲に望む。
遥々の思い 胸をいたましめて、加賀の府まで 百三十里と聞く。
鼠の関を越ゆれば、越後の地に歩行を改めて、越中の国 市振の関に到る。
この間 九日、暑湿の労に神を悩まし、病起こりて 事を記さず。
文月や 六日も常の 夜には似ず
荒海や 佐渡に横たう 天の河
(現代語)
酒田では、名残を惜しんでつい長居をしてしまったが、ようやく北陸道の雲の彼方を目指すことになった。
加賀の府金沢まで百三十里(520km)と聞けば、その旅路のはるけきこと、胸の痛みを覚える。鼠の関を越えて、越後に入り、越中の国市振の関へと至った。この間九日、暑さと雨の難に精神は疲労し、加えて体調を崩したために、記すべき記録を残さなかった。
「文月や 六日も常の 夜には似ず」
「荒海や 佐渡によこたふ 天河」
(語句)
●「酒田の余波(なごり)日を重ねて」:象潟を発ってから酒田に戻り、その地の俳人たちと俳諧
を重ねて一週間ほど過ごした(「曾良・旅日記」)
●「遙々のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百丗里と聞」:加賀の府は金沢のこと。そこ
まで百三十里もあると聞けばさまざまな思いが胸に迫ってくる。
●「鼠(ねず)の関」:鼠が関(念珠が関)。山形と越後(新潟)の境界にあり、ここから越後と
なる。奥羽三関の一つ。
●「市振(いちふり)の関」:「市振」はまだ越後で、そこを越えると越中(富山)となり、芭蕉
の勘違い。
●「この間 九日」:「曾良・旅日記」によると、「鼠が関」を越えたのが六月二十七日で、
「市振」に着いたのが七月十二日で16日かかったことになる。このあと腹を病んで苦しむの
は、むしろ曾良の方である。
●「暑湿の労」:暑さや雨に苦しめられ。
●「神(しん)を悩まし」:「神」は、「心、たましい、精神」で、「気が滅入る」、「気分がす
ぐれない」。ここの記述は短い。曾良『随行記』にも芭蕉が病んだ記述が無いことから、「病
おこりて」の記述は嘘らしい。柏崎や直江津では芭蕉の待遇について良くなかったらしい。門
人たちの心得が悪かったか、芭蕉への尊敬の念が薄かった。
●「文月や」:七月六日は、七夕の前夜である。
(俳句)
「文月や 六日も常の 夜には似ず」
七月といえば、(七夕の前夜の)六日もいつもと違ってはなやいだ気持ちになる。
「荒海や 佐渡に横たう 天の河」
(出雲崎から日本海の)荒海を見ると、彼方の佐渡島にかけて、天の川が大きく横たわっ
ている。
(写真)
=====================
次回は 第38回「市振」
(担当H)
====================