『おくのほそ道』 第28回 尾花沢 | 奈良の鹿たち

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『おくのほそ道』

第28回「尾花沢」

(おばなざわ)

 

(紅花畑)

(尾花沢 元禄二年五月十七~二十七日)

 

第28回「尾花沢(おばなざわ)」 (原文)

尾花沢(おばなざわ)にて 清風(せいふう)と云ふ者を(たづ)ぬ。

かれは富める者なれども、(こころざし) (いや)しからず。

都にも折々(おりおり)通いて、さすがに 旅の(なさけ)をも知りたれば、日比(ひごろ)とどめて、長途(ちょうど)のいたわり、さ

まざまに もてなし(はべ)る。

涼しさを 我が宿にして ねまるなり

  ()い出でよ 飼屋(かいや)が下の (ひき)(こえ)

  眉掃まゆはきを おもかげにして 紅粉べにの花

  蚕飼(こが)いする 人は古代の 姿かな (曾良)

 

(現代語)

尾花沢では清風という者を訪ねた。清風は、金持ちだが、その心持ちは卑しくない。都にもしばしば往来して、それゆえに旅の情をもよく心得ているので、数日間泊めて長旅の疲れを労ってくれ、またさまざまにもてなしてくれた。 

「涼しさを我宿にしてねまる也」

「這出よかひやが下のひきの声」

「まゆはきを俤にして紅粉の花」

「蚕飼する人は古代のすがた哉」 (曾良)

 

(語句)

●「尾花沢」:現在の山形県尾花沢市(この時代には「おばねざわ」と呼称していた)。 
●「清風(せいふう)」:鈴木清風。本名:鈴木道祐。紅花問屋・島田屋の豪商で、金融業も営ん

 でいた。芭蕉や曾良とは貞享二年以来江戸での付き合いがあり、芭蕉の評価の高かった門人の

 一人。当時三十九歳。
●「かれは富める者なれども、志卑しからず」:この文章から「芭蕉は富める者はその志が卑し

 い」と考えていたようだ。

●「都にも折々通いて」:「心の花の都にも、二年(ふたとせ)三年(みとせ)住みなれ、古今俳諧の

 道に踏み迷ふ」(「おくれ双六〈すごろく〉」清風自序)
●「ねまる也」:北国の「ねまる」は「他人の家であることを忘れ、くつろいで座る」というこ

 と。

●「飼屋(かいや)」:蚕の養蚕室を表す尾花沢の言葉とのこと。「ねまる」や「かいや」など、

 土地の言葉を使っているところに清風に対する気持ちがうかがえる。
●「眉刷(まゆは)き」:白粉(おしろい)を付けた後に眉毛を払う小さな刷毛(はけ)のこと。
●「紅粉の花」:紅花の形から、眉刷きを連想しているということで、これも紅花問屋の清風と

 関係がある言葉。ちなみに雪の多い尾花沢は養蚕(ようさん)は盛んに行われていたが、紅花の

 栽培はあまり行われていなかったそうで、その代わり収穫された紅花の集散地として栄えたと

 いう。

●「蚕飼する人は古代のすがた哉」:養蚕に励む農民の姿は実に質素簡素で、古代の農民の姿が

 偲ばれることだ。

 

(俳句)

 「涼しさを 我が宿にして ねまるなり」

   お宅の座敷の涼しさを、あたかも自分の家にいる気安さでくつろいでいます。
 「這い出でよ 飼屋が下の 蟾の聲」
   養蚕小屋の下に、ヒキガエルの声がするが、そんなうす暗いところではなく明るい外に出

   ておいで。
 「眉掃きを 俤にして 紅粉の花」
   化粧道具の眉掃を連想させるようななまめかしい紅粉の花だこと。
 「蚕飼いする 人は古代の 姿かな」 (曾良)
   蚕飼にいそしむ人たちは、昔ながらの質素な身なりで古(いにしえ)を偲ばせる。

 

(写真)

       

 

 

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次回は 第29回「立石寺」

 

 

(担当H)

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