『おくのほそ道』
第22回「塩竃神社」
(しおがまじんじゃ)
(「石の階 九仭に重なり」の塩竈神社)
(塩竈 元禄二年五月九日)
<第22回「塩竃神社」 > (原文)
早朝、塩竈の明神に詣づ。
国主 再興せられて、宮柱 太敷く、彩椽きらびやかに、石の階 九仭に重なり、朝日朱の玉垣を輝かす。
かゝる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、い貴けれ。
神前に 古き宝燈有り。鉄の扉の面に、「文治三年 和泉三郎寄進」と有り。
五百年来の俤、今 目の前に浮かびて、そぞろに珍し。
渠は勇義忠孝の士也。
佳名今に至りて、慕わずといふ事なし。
誠に「人能く道を勤め、義を守るべし。名もまた是に従う」と云へり。
日 既に午に近し。船を借りて松嶋に渡る。
その間 二里余り、雄嶋の磯に着く。
(現代語)
早朝、塩竈神社に参詣した。これは領主(伊達政宗公)が再興したもので、宮柱はいかめしく、彩色の垂木はきらびやかで、石段は高く重なり、朝日が朱の玉垣を照らしている。このような道の果て、国の境まで神仏の霊験があらたかであることこそ、この国の文化なのだと貴く感じた。神前に古い灯籠が立っていて、鉄の扉の表面には、「文治三年和泉三郎寄進」と書いてある。これを寄進した五百年前の様子がしのばれて、追慕の心やみがたい。(和泉の三郎こと藤原忠衡は、)勇義に篤く、忠孝の武士であった。その名は今に伝わって、人々は彼を敬慕する。まことに「人能道を勤め、義を守るべし。名もまた是にしたがふ」と言われている。
日はすでに昼近くになった。船を借りて松島に渡った。塩竈から松島まで、二里(8km)あまり、雄島の磯に到着した。
(語句)
●「塩竃(鹽竈)(しおがま)の明神」:塩竃神社。 陸奥国一宮。
●「国主再興せられて」:慶長十二年(1607年)に藩主・伊達政宗が修造したことを指す。
●「宮柱太敷く」:「太敷く立てて」の誤用とのこと。別に神社の柱が太いわけではない。社を
誉めるときの常套句・慣用表現。
●「彩椽きらびやかに」:「采椽(彩ったクヌギの垂木)」を転用した造語らしい。
●「石の階 九仭に重なり」:石の階段が高いところまで何段も続いている、の意。現在202段
といわれる。
「九仭」の「仭(じん)」は周尺で、両手を広げた程の長さらしい。「九」は数の多いものを表
す言葉として使われる。
●「朱の玉垣」:神社の周囲にめぐらされた朱色に塗られた垣。「玉」は美称。
●「塵土(じんど)の境」:草深い田舎の意。
●「神前に古き宝燈あり」:当時は表坂の石段を登りきった左側にあったとか。「文治三年」は
作られた当時のことで、芭蕉の頃は寛文年中に再興されたもの。
●「和泉三郎」:藤原忠衡(ふじわらのただひら)のことで、藤原氏三代当主・藤原秀衡の三男。義経
を匿ったために次男泰衡から攻撃されて死亡。
●「文治三年」:1187年。元禄二年の502年前で、兄・泰衡の軍と戦って亡くなる二年前の
こと。ここに宝塔を寄進した。芭蕉がこの地を訪れたのはちょうど500年後にあたる。 芭蕉の
義経への肩入れは、すでに佐藤庄司旧跡でも語られている。
●「渠(かれ)は勇義忠孝の士也」:和泉三郎は立派な武士だ。異母兄である藤原泰衡が源義経を
攻めた時、父・秀衡の遺言を守って義経に味方し、兄・泰衡と戦って最期は自害したことを指
す。
●「名もまた是に従う」:韓退之(かんたいし)『進学解』に<動いて謗りを得、名も亦これに従う
●「日既午にちかし」:午後0時頃。
●「雄島の磯」:現在の松島水族館の近く海に突き出した小島。古来真言密教の修行の場であっ
た。
(写真)
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次回は 第23回「松島」
(担当H)
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