『おくのほそ道』 第20回 多賀城跡・壷の碑 | 奈良の鹿たち

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『おくのほそ道』 

  第20回「多賀城跡・壷の碑」

(たがじょうあと・つぼのいしぶみ)

 

(「壷の碑(つぼのいしぶみ)」多賀城跡)

(多賀城 元禄二年五月八日)

 

<第20回「多賀城跡(たがじょうあと)壷の碑(つぼのいしぶみ)」> (原文)

かの画図(えず)にまかせて たどり行けば、奥の細道の山際(やまぎわ)に、十符(とふ)(すげ)有り。今も年々十符の菅菰(すがごも)

調(ととの)えて 国守(こくしゅ)に献ずと云えり。

壷 碑(つぼのいしぶみ) 市川村(いちかわむら) 多賀城(たがじょう)に有り。
つぼの石ぶみは、高さ六尺余り 横三尺ばかりか。

苔を穿(うが)ちて文字(かす)か也。四維(しゆい)国界(こくかい)之数里を(しる)す。

此城(このしろ) 神亀(じんき)元年 按察使(あぜち) 鎮守(ちんじゅ)府将軍大野朝臣(おおののあそん) 東人(あずまびと)()置所(おくところ)也 天平宝字(てんぴょうほうじ) 六年 参議東海(さんぎ・とうかい) 東山(とうせん) 節度使(せつどし) (おなじく)将軍恵美朝臣(えみのあそん) 朝狩(あさかり) 修造(しょぞう) 而(「也」の誤り)十二月朔日(ついたち)』と有り。聖武(しょうむ)皇帝の御時(あた)れり。

昔よりよみ置ける歌枕 多く語り伝うと云えども、山崩れ、川流れて、道改(みちあらた)まり、石は埋もれ

て 土に隠れ、木は老いて 若木に()われば、時移り、()変じて、その跡たしかならぬ事のみ

を、(ここ)に至りて疑いなき 千歳(せんざい)記念(かたみ)、今眼前に 古人の心を(けみ)す。 
行脚の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労を忘れて、(なみだ)も落つるばかり也。

 

(壷の碑を見る芭蕉一行)

 

(現代語)

加右衛門が描いてくれた名所絵図に従って行くと、「奥の細道」と呼ばれる山際に、(「見し人もとふの浦かぜ音せぬにつれなく消る秋の夜の月」の古歌で有名な)「十符の菅」があった。今でも年々十筋の網目の菅菰を作って、藩主(伊達家)に献上しているという。

「壺碑」は市川村多賀城に有った。

「壺碑」は、高さ6尺(180cm)あまり、横3尺(90cm)ほど。苔をえぐって文字がかすかに見えるほどだが、ここから四方にある国境までの里数が書いてある。『此城、神亀元年按察使 鎮守符(府)将軍大野朝臣 東人之所里(置)也。天平宝字六年参議東海東山節度使、同将軍藤原恵美朝臣※修造而。十二月朔日』 (この城は神亀元年 按察使鎮守符(府)将軍大野朝臣東人が築いたものである。天平宝字六年 参議東海東山の節度使ならびに将軍藤原恵美朝臣がさらに修理した。十二月朔日。) 聖武天皇の御代にあたる。

 ここには昔から歌に詠んだ歌枕がたくさん伝えられているが、山は崩れ、川は流され、道は変わってしまい、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木に代わったので、時は移り変わり、その跡の不明なものばかりだ。それなのに、こうして疑いようもない千年の歴史遺産を眼前にして、古人の心を感得した思いがする。旅すればこその果報、生きてある喜び、旅の苦しみも忘れて涙を流すばかりに感動した。

 

(語句)

●「かの画図」:画工加右衛門が描いた絵図。

●「おくの細道」:奥大道に対する名称。現在の東北本線岩切駅付近 七北田川(冠川)沿い、

 東光寺裏山へ続く小道を大淀三千風らが「奥の細道」と名づけたとされる。そして、これが

 「奥の細道」の命名になったという説があるが怪しい。

●「十符の菅」:編み目が十筋ある、菅で編んだ菰(こも)のこと。古歌では陸奥の名産とされ、

 その材料である菅は、当時岩切あたりで栽培されていた。菰は日本酒の菰樽や、樹木の防寒や

 害虫駆除で幹に巻いたりするものに見られる。
●「壷碑(つぼのいしぶみ)」:伊達綱村時代に多賀城跡から発掘された「多賀城碑」であるが、こ

 の時代、壷の碑として誤伝されていた。この頃既に城は無かった。

●「四維(しゆい)国界(こくかい)之数里をしるす」:この碑には、周囲の国境まで何里あるかを記

 録してあるの意。

●「神亀(じんき)元年」:724年、聖武天皇即位の年。

●「按察使(あぜち)鎮守(ちんじゅ)符将軍大野朝臣(おおののあそん)東人(とうせん)之所里也」:

 「符」は「府」の、「所里」は「所置」の間違い。按察使鎮守府将軍は北方の守りの責任者。

 天平宝字6年(762年)に多賀城は設立された。

●「同じく」:兼務の意

●「将軍藤原恵美朝臣(えみのあそん)」:藤原 朝狩(あさかり)は、奈良時代の公卿。藤原仲麻呂の

 四男。多賀城の大規模改修を行い、その記念碑として多賀城碑を建てる。

 

 (写真)

 

 

 

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次回は 第21回「末の松山 塩竈の浦」

 

 

(担当H)  

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