『おくのほそ道』 第18回 武隈 | 奈良の鹿たち

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『おくのほそ道』 

  第18回「武隈

(たけくま)

 

(武隈の二木の松)

(武隈 元禄二年五月四日)

 

<第18回「武隈(たけくま)」> (原文)

武隈(たけくま)の松にこそ め()むる心地はすれ。

根は土際(つちぎわ)より 二木(ふたき)に分かれて、昔の姿 失はずと知らる。

先ず 能因(のういん)法師 思い()づ。

往昔(そのかみ)陸奥(むつ)(かみ)にて下りし人、此の木を伐りて、名取川(なとりがわ)橋杭(はしぐい)にせられたる事など あれば

にや、「松は此のたび跡もなし」とは()みたり。

代々(よよ)、あるは()り、あるいは植え継ぎなどせしと聞くに、今将(いまはた) 千歳(ちとせ)の形 整いて、目出度(めでた)

松の気色(けしき)になん(はべり)し。

「武隈の 松みせ申せ 遅桜(おそざくら)」と、挙白(きょはく)と云う者の 餞別したりければ、

  桜より 松は二木(ふたき)を 三月越(みつきご)

 

(現代語)

武隈の松は、まことに目の覚める心地がした。その根は、生え際から二本に分かれていて、(「たけくまの松はふた木を都人いかにとゝはゞみきと答ん」と古歌に詠まれているが、)昔のそのままの姿をとどめていることが分かった。

最初に、能因法師のことが思い出された。その昔、陸奥守として赴任した(藤原孝義)は、この木を伐って名取川の橋杭にしてしまったことがあったのだが、能因は「武隈の松はこのたび跡もなし千とせをへてや我は来つらん」と詠んでいる。代々、この松を、ある時は伐り、またある時は植え継ぎなどしてきたと聞くにつけても、今また千年の樹齢の昔の姿に復活して、実にめでたい松の姿ではないか。

「武隈の松見せ申せ遅桜」と、門人挙白が餞別をくれたので、

 「桜より松は二木を三月越シ」

 

(語句)

●「武隈の松」:「二木の松(ふたきのまつ)」という歌枕。根本から二本に分かれた形をしてお

 り、古来多くの歌に詠まれてきた。芭蕉が敬愛する西行や能因法師が訪れた頃は跡も無かった

 ようだが、代々植え継がれて芭蕉の頃は五代目、現在の松は七代目になるという。「たけくま

 の松はふた木を都人いかにとゝはヾみきと答ん」(橘孝通『後拾遺和歌集』)
●「能因法師 思い出づ」:能因が詠んだ句のこと。「みちの国に再び下りて後のたび、武隈の

 松も侍(はべ)らざりければ よみ侍りける『武隈の 松は此のたび跡もなし 千歳(ちとせ)

 経てや われは来つらむ』」(後拾遺和歌集)
●「往昔、陸奥の守にて下りし人」:陸奥の守・藤原孝義のこと。彼は、この松を伐採して橋を

 作ったと言い伝えられている。
●「松は此のたび跡もなし」:前出、能因法師の詠んだ句「武隈の松はこのたび跡もなし千年を

 経てや我は来つらむ」の一節の引用。
●「挙白」:江戸の芭蕉門下の俳人で、草壁氏。商人。 
●「松は二木を」:武隈の松は「二木(ふたき)の松」とも呼ばれ、根本から二本に分かれてい

 る。
●「三月越し」:江戸を三月二十七日に発って、現在は五月四日ということで、時間としては二

 月と八日だが、形の上では「三月越し」になる。曾良旅日記によると、「(五月)四日 雨少

 し止む。辰の刻、白石を立つ。折々日の光見る。岩沼入り口の左の方に、竹駒明神と云う有

 り。その別当の寺の後に武隈の松有り。竹垣をして有り。その辺り、侍屋敷也」―とあり、そ

 の後で笠島や三ノ輪(箕輪)を通っている。

 

(俳句) 

  「桜より 松は二木を 三月越シ」

    挙白が江戸出立の折り、武隈の桜の歌を贈ってくれたが、二木の松が、旅の今日までの

    三ヶ月越しに私を待っていてくれました。

 

(写真)

    

 

 

 

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次回は 第19回「仙台 宮城野」

 

 

 (担当H)

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