『おくのほそ道』
第15回「佐藤庄司が旧跡」
(さとうしょうじがきゅうせき)
(笈も太刀も五月にかざれ帋幟)
(飯塚(飯坂) 元禄二年五月二日)
第15回「佐藤庄司が旧跡」(原文)
月の輪の渡しを越えて、瀬の上と云う宿に出づ。
佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半斗りに有り。
飯塚の里 鯖野と聞きて、尋ね尋ね行くに、丸山と云うに尋ねあたる。
「是庄司が旧舘也、梺に大手の跡」など、人の教うるに任せて泪を落とし、又 傍らの
古寺に一家の石碑を残す。
中にも二人の嫁が しるし(標)、先ず哀れ也。
女なれども かいがい(甲斐甲斐)しき名の世に聞こえつる物かなと、袂を濡らしぬ。
「堕涙の石碑」も 遠きにあらず。
寺に入りて茶を乞えば、爰に義経の太刀、弁慶が笈をとどめて、什物とす。
笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟
五月 朔日の事也。
(佐藤兄弟 蕪村 筆「奥の細道図巻き」)
(現代語)
月の輪の渡しを越えて、瀬の上という宿に出た。佐藤庄司の旧跡は、ここの左手一里半ほど離れた山際にある。飯塚(飯坂)の鯖野にあると聞いたので、道々尋ねながら行くと、丸山というところに尋ね探し当てた。これが庄司の旧館で、麓に大手門の跡などが残っているなどと、土地の人が語るままに話を聞いて涙を落とした。また、近くの古寺(医王寺)には(佐藤一族)の石碑が残っている。中でも、(佐藤継信・忠信兄弟)二人の妻の墓標は悲しい。女性であっても、(二人の夫の戦死の後、甲冑に身を包んで亡き夫らの姿を装い、兄弟の母を慰めたなど)、そのかいがいしい話が伝えられているにつけても袂を濡らした。まさに(中国故事の)「堕涙の石碑」が、こんな近くにもあったのだ。
茶をいただこうと寺に入ってみれば、この寺には義経の太刀と弁慶の笈を宝物としていた。
「笈も太刀も五月にかざれ帋幟」
五月一日のことだった。
(語句)
●「月の輪(つきのわ)のわたし」:福島市鎌田字月輪。当時阿武隈川の渡し場だった。
●「瀬の上(せのうえ)と云宿に出づ」:瀬の上は福島市瀬上町。奥羽街道の宿場 。
●「佐藤庄司(しょうじ)」:信夫庄司(しのぶ・しょうじ)と呼ばれた武将、佐藤基(元)治(さとう・も
とはる)のこと。
佐藤元治は藤原秀衡の家臣で源義経に仕えた忠臣。佐藤継信・忠信兄弟の父親。 庄司は、荘
園領主の代理人として荘園を管理する職のことで人名ではない。ここでは、信夫郡・伊達郡の
庄司だった佐藤基治という個人を指している。、
佐藤継信: 義経の忠臣の一人。屋島の合戦で大将・義経をかばうため敵の矢面に立って射
抜かれた。
佐藤忠信: 義経の忠臣の一人。多勢に無勢の壮絶な最期を遂げた武将。
●「二人の嫁がしるし、先哀也」:継信・忠信の妻の墓碑。二人は夫たちが義経と共に死んだと
き、あたかも凱旋したように見せかけて鎧甲冑に身を包んで兄弟の老母を慰めたと伝えられて
いた。
●「堕涙(だるい)の石碑」:見て涙を流す石碑。中国の古事からきた。つづく「遠きにあらず」
は、なにも中国でなくてもこんな所にも「堕涙の石碑」があったのかの意。
●「義経の太刀、弁慶が笈(おい)」:義経の刀、弁慶の背に負うように作られている本箱。この
うち義経の太刀は、太平洋戦争中金物の供出に出して今はない。
●「五月(さつき)朔日(ついたち)」:ここでも一日実際とは違ってこの日は五月二日だった。これ
は作者の文学的虚構。句で「五月に飾れ帋幟」としたためであろう。
(俳句)
「笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟」
ちょうど節句の五月、弁慶の笈も義経の太刀も紙幟と一緒に飾ってください。
(写真)
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次回は 第16回「飯塚」
(担当H)
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