『近畿の地質的景観』第4回 奈良湖 | 奈良の鹿たち

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『近畿の地質的景観』 

第4回

<奈良湖>

 

 

(遥か二上山を望む奈良湖 想像図)

奈良湖の成立ち

今の奈良盆地は、古代は湖でした。

300万年前には古琵琶湖(甲賀湖)の水が古瀬田川を通って流れ込んで、奈良湖(古奈良湖、大和湖)が出来ていました。奈良湖が広がっていたのは、ちょうど奈良盆地の中央部の西側。大和川、曽我川、葛城川、竜田川、富雄川などの幾つもの川が合流している地点。地域名でいうと生駒郡、葛城郡、磯城郡のあたりになります。

200万年前の二上火山の噴火に伴い大和川北側の山体が崩落して、大規模な土石流が発生し谷が埋没しました。その結果、奈良湖は流れ出すところのない湖となりました。

150~100万年前に、地殻変動で奈良盆地周辺(生駒山地、金剛山地、大和高原)が隆起し、古瀬田川の水が奈良湖に入り込まなくなりました。その頃、せき止められて流れ出すところのない大和川が、亀の瀬から河内へ流れ下ったと考えられています。

以来、1万年前から少しずつ湖面が低下し縄文期6000年前頃、湖の水面は標高70m辺りだったと推定されます。そのため、奈良盆地の低地部には縄文遺跡はありません。

7000~6000年前の縄文海進の時期は、近畿で海面が3mほどの高まりがありました。しかし、奈良湖は標高が高く、北の淀川水系や西の大和川からは、流れ出すのみで海水が流れ込むことはありませんでした。

 

ちなみに府県庁の標高は、奈良県庁 93.1m、京都府庁 47.6m、大阪府庁 15.5mです。

奈良盆地は近畿では一段と高い所にあります。

 

弥生時代~奈良時代

弥生時代の2500年前頃には、湖面は標高50mほどになり、湖岸に弥生文化が発達したとみられます。これは奈良盆地の弥生遺跡が標高50m線より上に多いことからも裏づけられています。

法隆寺あたりが標高約50mであることから、法隆寺まで来ていた湖水の奈良湖の姿を想像すると、弥生期にはまだとても大きな湖沼だったと考えられます。

当時の唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)は、奈良湖湖畔にありました。単なる生活の場ではなく工房都市の性格も持っていました。土器はもちろん、木器、織物、石器、玉、さらには青銅器の鋳造も行われていました。これらを作るためには他の所から原料を運び込む必要があり、また作られた製品は自家用の他に交易にも用いられていました。交易を考えると交通路が必要なのですが、陸路は道の整備は十分ではなかったし、重量物の運送に適していません。そこで古代人は水路を交通路として重視していました。湖畔域に住んでいることで、他の湖畔域の集落との交流が活発に行われました。

奈良湖での漁業も行われていました。スッポン、ウナギ、アユ、コイ、フナ、ドジョウ、シジミ、ナマズと定番のものが確認されています。そして、ハマグリやアワビなどの外洋性の貝殻も発掘され、大和川を通じて大阪湾地域との交流をうかがえます。

遺跡の弥生土器に、舟をあやつる人物が描かれているものがあります(下図)。唐古・鍵のある地域は"磯城(しき)"と呼ばれていますが、"磯"は「石や岩の多い波打ちぎわ」という意味で場所の情景が浮かびます。

奈良盆地低部に古墳はありません。聖徳太子が斑鳩に宮を造営する約1400年前の7世紀には、湖は干上がりほぼ今の地形になっていることから急速に陸地化していったとみられますが、現在の川の集まる状態からして、斑鳩付近の大和川の標高は約40mなので、斑鳩一帯が最後まで湖底にあったと思われます(下図)。

飛鳥時代でも"残存奈良湖泥沼地域"が存在していたため、桜井・三輪神社から天理・石上神宮を結んでいる山の辺の道は、当時は湖の岸辺をたどる歩道でした。

奈良盆地には今でも小さな池がたくさんあり、実はそれらが、かつての奈良湖の跡を示しているのです。奈良湖の北端にあたる大和郡山市新木町のあたりは、下図の通り特に集中しています。

 

亀の瀬

奈良県の盆地は、今は初瀬川、富雄川、飛鳥川、高田川など枝分かれた150余の小河川が張り巡らされており、すべての川が大和川一本に集められ、狭い亀の瀬(下図)といわれる峡谷を通って河内平野に流れ下っています。

  

ところが亀の瀬は少なくとも4万年前から地すべり多発地帯で、”畏(かしこ)の坂”として『万葉集』にも登場するほど地すべりで畏れられてきましたが、その一方で亀の瀬を通る道は竜田越奈良街道(竜田道・竜田街道)(下図)と呼ばれ、奈良と大阪を結ぶ重要な街道として、多くの人が利用してきました。

大和川に沿って竜田街道を通るルートは、奈良への道として暗峠街道や竹内街道と比べて標高も低く、高低差が少ないため、盛んに利用されていました。

遅くとも古墳時代には、大和川右岸を通る竜田道が利用されていたようです。奈良時代には、天皇の難波へのルートとして、竜田道が行幸路となりました(上図)。また、大坂冬の陣に際し、徳川家康は竜田道を越え大坂へ向かいましました。

難波から大和へのルートの水上交通として、縄文・弥生時代から飛鳥・奈良時代の間、ずっと担ってきたのが大和川です。人や物資の輸送は、舟の方が大量に運べ、大和川は唯一の水上交通路でした。隋から裴世清が難波津から海石榴市を経て飛鳥に入りましたが、大和川を利用したのではないかと考えられます(この頃の大和川は、今よりも水量も多く、舟の航行も盛んだった)。

しかし、亀の瀬は地滑り地帯があったり、滝があり川底が浅い難所がありました。江戸時代には、亀の瀬を境にして下流の河内側は剣先船が、川底の浅い上流の竜田側には魚梁船が就航し、亀の瀬で荷物の積み替えが行われました。

(↑7世紀頃の大和川の流れ)

(↑亀の瀬の廻船問屋)

 

亀の瀬が地すべりしやすいのは、弱い地層が変質して粘土層になった上に荷重の大きい溶岩が乗ったこと、山体が地殻変動により大和川方向に傾斜していること、大和川断層の活動や大和川による山脚部の侵食なども関係していると考えられています。

明治36年7月、断続的に降り続く雨により上流部が何度も浸水していたところに地すべりが発生し、大和川の河床が隆起しました。梅雨の豪雨が重なり、大和川がせき止められ王寺町は大氾濫被害にあいました。

近年では、昭和6年9月ごろから地すべりの兆候はあり、ついに11月に山塊が大和川に向かってすべり始めました。翌昭和7年に入り、旧国鉄関西本線の亀の瀬トンネルが崩壊、大和川の河床隆起が顕著となりました。2月中旬、上流奈良県王寺町の大正橋が冠水。国は梅雨時期の出水に備えて河床掘削工事を実施しましたが、7月の豪雨により地すべりがさらに活発化し、大和川の河床が9m以上隆起しました。これにより大和川は完全に閉塞し、上流部の王寺町あたりはダム湖のようになりました(下図)。その後、地すべり活動は沈静化したように見えましたが、翌8年6月に再び新明神山トンネルに亀裂が発生。この間、人家は倒壊、田畑は亀裂・陥没して作物は全滅しました。鉄道は地すべりで不通となり、道路も寸断され、地域の人々は生活していくためのほぼすべてを失いました。

当時の人々は「一度すべりだしたら止まらない地すべり」と半ばあきらめの思いでした。

もし、亀の瀬が塞がって、大和川の水が大量に溜まったらどうなるでしょう?

奈良盆地の標高は40~60mほど。一方、生駒山を隔てた河内平野のそれは1〜3m。

奈良県側が大水害だと言って、地すべり土砂を取り除けば、落差50mを下って低地である大阪の柏原、藤井寺、平野、堺に滝のように流れ込み、大洪水となって甚大な被害をもたらします。

(↑高さは3倍に拡大)

現在は、世界最大級の地すべり対策工事がされ、それ以降は対策事業の効果もあって、目に見える規模の地滑りは発生していません。かの阪神淡路大地震でも、微動だにしなかったそうです。

 

また、この亀の瀬地区から直線距離で2km南の関屋(せきや)地域にも金剛生駒山地の切れ目があります(下図)。この関屋地域は第四紀初頭(約250万年前)には、奈良湖の水の流水口であったという研究成果があります。現在は近鉄大阪線(下図)が山の切れ目の複雑な地形を走っており、トンネルとカーブが続いています。車窓から周りを眺めると、開けた奈良盆地と大阪平野の間でまさに狭い山中で山が迫っていることが分かります。ここもまた、大坂と奈良を結ぶ大事な街道が通っていて、関所が設けられていました(関屋の名前の由来)

聖徳太子が法隆寺から大阪の四天王寺へ向かうとき、途中関屋峠を越したという記録もあります。

 

 

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次回は 第5回(最終回)「熊野カルデラ」

 

 

(担当 G)

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