『近畿の地質的景観』第3回 琵琶湖 | 奈良の鹿たち

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『近畿の地質的景観』 

第3回

<琵琶湖>

 

 

琵琶湖はバイカル湖やタンガニーカ湖に次いで世界で3番目に古い湖で、約400万年の歴史がある。但しその姿や位置は長い年月をかけて変動して出来たもので、はじめから現在の位置にあったわけではありません。

 

『移動する琵琶湖』

 

 

衛星写真を見ると、琵琶湖の南側地域にあたかもナメクジが這った跡のような琵琶湖が這った「跡」があるのに気付く。まさにこの画像の通り琵琶湖は南から北に移動してきたのです。

古琵琶湖の移動のイメージは、湖になる地形的に低い凹みの場所が造山運動や断層運動などで移動することで起きていると考えられます。そして地盤変動と土砂の流入のせめぎ合いで移動が決まりました。そのことは古琵琶湖層群の調査から分かってきました。

① <大山田湖(おおやまだこ) 最初の琵琶湖は三重県の旧大山田村(現在の伊賀市)にありました。大山田湖といいます。小さく浅い湖で湿地環境。今、そこを流れる服部川の河床からは古琵琶湖層群のひとつ上野層群が見られ、ゾウやワニの化石が見つかっています。約400万年前の断層運動の結果できたもので、約320万年前には次第に流送土砂により埋まっていきました。この頃の日本列島の気候は亜熱帯でした。

(大山田 せせらぎ公園 看板より 「350万年前の大山田村の風景」)

「大山田村には今から350万年前に堆積した古琵琶湖層群が分布しています。化石などの証拠から、水辺にはワニやツル、アマミノクロウサギの仲間やシンシュウゾウなどが生息していました。水中では1m近いコイやスッポンが泳ぎ、イガタニシなどの貝類も多く見られました。」

 

  

 

② <阿山湖(あやまこ) 一旦なくなっていた湖は、約300万年前に再び現れました。これが阿山湖で、大山田湖からは少し北へ移動していました。浅くて広い湖。この頃、近畿のあたりでは造山運動が活発で、そのため約270万年前阿山湖も次第に埋まりました。地層は伊賀層群、阿山層群

古琵琶湖層群は湖底の土が陶器(伊賀焼)には向いているが、粘土層のため水田には向かなかった(泥田)。特に、渇水になると田んぼには深いひびが入り、水田は壊滅的打撃を受けました。そのため戦国時代、住民は生活の糧を求めて、兵卒となって諜報活動など危険な役割を担い、それが忍者として重宝がられました。(伊賀・甲賀忍者)

 

③ <甲賀湖(こうがこ) 約270~250万年前に、また北側に別の湖ができました。甲賀湖といい、広く深い湖でした。甲賀湖も土地の隆起により消滅してしまいました。地層は甲賀層群。またこの頃、東には大きな東海湖があり、西は甲賀湖水が古瀬田川を通って、奈良盆地に流れ込み古奈良湖を形成した時期もありました。この頃、淀川はまだなく、水は大和川を通って大阪湾に注いでいました。

(信楽焼)

信楽焼の焼かれた甲賀地域は、伊賀地域と隣接し、そのため信楽焼と伊賀焼は雰囲気がよく似ているといわれますが、これは同じ古琵琶湖層の粘土層を利用しているためです。

 

④ <蒲生湖(がもうこ) 約250~180万年前には、現在の琵琶湖の南西部分が傾斜し滋賀県蒲生町付近に湿地状態の沼沢地ができました蒲生湖 蒲生沼沢地群地層は蒲生層群。このあたりにはメタセコイアの林が広がっていました。愛知川(えちがわ)や野洲川(やすがわ)の河床には化石林が残されています。当時の地層からはゾウの化石なども見つかっています。この湖は干上がって消滅しました。

 

⑤ <堅田湖(かただこ) 蒲生沼沢地がなくなったあと、約100~40万年前には堅田付近に小さく浅い湖が形成されました。堅田層群。堅田湖の時代からは、琵琶湖の湖東方面からも徐々に水や土砂が流入し水量も増えて、今の琵琶湖に到っています。堅田湖の時代に、湖から出た水は、今の瀬田川や淀川から、大阪湾に下っていったのではないかと思われます。

 

⑥ <現在と未来の琵琶湖> 堅田湖の付近が約40万年前に隆起し、断層運動により陥没した凹地に現在の琵琶湖が形成されました。現在も琵琶湖の底で沈降は続いており、1年に3cm程度北に移動して、はるか未来には三方五湖のあたりで日本海に出てしまうことになります。南湖の方は現在でも土砂が溜まって浅くなっており、将来の琵琶湖の形はもっと北に位置した形になると思われます。

  

 

 

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次回は 第4回「奈良湖」

 

 

(担当 G)

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