『近畿の地質的景観』第2回 上町台地 | 奈良の鹿たち

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『近畿の地質的景観』 

第2回

<上町台地>

 

上町台地は大阪平野を南北に伸びる丘陵地・台地である。

 

縄文~室町時代の上町台地周辺は、埋め立ても少なく自然の土砂の堆積で遠浅になっていきました。江戸時代から大地の西側が、埋め立てや安治川治水、大和川すげ替えなどの土木工事が盛んになりました。

・「梅田」:大阪駅界隈の大阪の顔。何故,「うめだ」と言う名前?⇒浅瀬を埋め立てたので「埋めた」→「うめだ」。

・「大坂城」:大阪のど真ん中の城。何故,本願寺や大坂城がここにあったの?⇒北東西が遠浅の海や湖で囲まれ防御しやすかった。大坂の陣では、徳川方も南からのみ攻めなければならなかった。そのため、豊臣方は真田丸という出城を大坂城の南に設けた。

・「北浜」:北のビジネス街。何故,「浜」が付いているの?⇒浅瀬の「浜」でした。

・「京橋」,「鶴橋」(環状線):台地と河内湖の境目。

・「船場」:御堂筋沿いのビジネス街。何故、「船」?⇒堂島、中之島と同じく船着き場で栄えた。

・「高津神社」:大阪都心の住宅街の中。何故、「津」?何故、西側に船着き場跡? 何故,境内に船絵馬が飾られているの?⇒大阪湾の船着き場だった。

・「夕陽ヶ丘」:南大阪都心の中。何故、庶民や空海・日蓮が海に沈む夕日を拝んだと言われているの?⇒当時この高台から海に沈む夕日が美しく神秘的だった。

・「住吉大社」:まわりから海も見えないのに何故海の神様?⇒当時、神社前まで海が来ていた。

・「熊野街道」:なぜ今の天満橋から始まっているの?⇒京都から熊野に向かうには、京の伏見から淀川三十石船に乗って大坂の八軒茶屋(今の天満橋)で降りて、そこから南の和歌山に向けて歩いた。だから熊野街道の出発地点は今の天満橋なのです。市内を抜ける熊野街道には神社も多く、街道塚も残っています。

 

 

上町台地の地形

200万年前から1万年前までに堆積した地層の洪積層の台地であり、硬く良好な地盤である。ウルム期(第四紀の氷河時代の最後の氷期。ほぼ7万年〜1万年前)の上町台地は、河内湾に突き出した半島状の台地で、豊中市から上町台地を経て岸和田市にまで至る上町断層の力によるものである。

 

 

縄文時代、上町台地の北端は大阪城でした。そこからさらに北には、天満砂堆と呼ばれる淀川からの土砂がつくった砂州・砂堆が東三国か吹田市の江坂辺りから上町台地へ続いていて、半島状の上町台地は完全に両端が陸地で繋がっていた。上町台地に繋がる砂州・砂堆は、上町台地側から発達したのではなく、淀川の土砂で現在の吹田・豊中あたりから上町台地に向かって発達したものである。淀川や大和川の流れ込む河内湾と大阪湾は、大阪城北側の堀江といわれる大川と垂水(吹田市)付近の水路というわずかな幅の水路でつながっていた。

弥生期から現在まで台地東部は淀川・大和川水系から運ばれる大量の土砂が堆積し河内湾⇒河内湖⇒湿地帯⇒沖積平野(1万年ほど前の最終氷期後期に海面が上昇し、それまで河谷であった河川の下流部に土砂が堆積し、周りの洪積層よりも一段低い低地。地震動にも弱く水分を多く含み湿地が多いため、建築地盤としては適していない)となり、台地西部も同じく河川の働きにより大阪市の中枢部を含む平野を形成するにいたった。台地東部への下りが比較的なだらかなのに対し、台地西部への下りが急峻であるのは台地東部が淀川・大和川水系の上流に位置し、土砂の堆積量が豊富なためで、台地西部は標高が低く大阪湾平均水面より低いゼロメートル地帯が広く分布している。縄文時代、さらにそこからは砂堆や潟(ラグーン)が広がる遠浅の海だった。現在の中之島、堂島、船場、難波、御堂筋、心斎橋、大正、住之江などは難波砂堆と呼ばれる遠浅の海だった。

 

●上町台地開発と大阪の歴史

<難波津>

2~3世紀にかけて、難波堀江の途中の、砂州と砂州の間の潟に設けられた港湾施設。8世紀に入ると、難波津は土砂の堆積によって港湾施設としての機能を失っていくことになる。762年に遣唐使船が難波津で動けなくなる事件が発生するなど大型船の停泊が困難になっていった。平安京遷都が行われると、平安京との交通至便なより北側の淀川右岸や神崎川流域に移行することになり、難波津の存在意義は小さくなった。また、「難波(なには、なんば)」という地名自体は、上町台地北端のみではなく一般的な地名でもあることから、平安時代以前の「難波津」は上町台地北端部ではなく、今の豊中~尼崎付近(難波浦と呼ばれた)や博多湾(鴻臚館・草香江・難波)など、別の地域の港湾のことではないかとも考えられている。

<難波の堀江>(5世紀前期 古墳時代)

河内湖周辺の水害対策として、5世紀の古墳時代中頃仁徳天皇が、現在の天満橋のあたりで砂州を掘って河内湖と大阪湾を直結する難波の堀江という運河を作ったと「日本書紀」には書かれているが、仁徳天皇自体の存在年代が不明確な以上、そのいきさつは確定的なものではない。

(第3回 「河内湖」にも記載)

<法円坂遺跡>(5世紀後半 古墳時代)

掘立柱の大型高床式倉庫が計16棟検出 古墳時代としては最大規模の倉庫群。法円坂遺跡の北方では王権の手による難波堀江(人工運河)開削と難波津(王権の港)設置が知られており、本遺跡もそれらと関連する王権直轄の倉庫群と推測される。ただし発掘調査によれば、倉庫群は継続することなく廃絶したとされ、その後の難波は一度小規模化したのち6世紀頃から再び規模を拡大することとなる。

<前期難波の宮>(7世紀中ごろ 奈良時代)

孝徳天皇 645年難波長柄豊崎宮として遷都。 大化の改新の詔を発布

天武天皇 683年複都制で飛鳥と難波を都とする。 火災で全焼

<後期難波の宮>(8世紀前半 奈良時代)

聖武天皇 726年 平城京の副都とする。

     744年 難波宮に再遷都。

     745年 紫香楽宮に遷都。

<和気清麻呂の治水工事>(788年 平安時代 初期)

和気清麻呂が大和川の水を大阪湾に流すため四天王寺の南を開削しようとのべ23万人をしたが失敗したとされている。天王寺公園北側の茶臼山にある「河底池」や、付近の谷町筋の起伏、堀越町という町名などはこの跡地と思われる。

<河村瑞賢の治水工事>(1684~1688年 江戸時代)

 

幕府の命によって、河村瑞賢は安治川の開削、大川・堂島川・曽根崎川の拡幅など、第2期では堀江川の開削、十三間堀川の開削、難波島切開による木津川の直線化などを行い、河岸では新地開発も同時に行った。ただ、河村瑞賢は大和川の付替には「意味がない」と反対で、川の浚渫(しゅんせつ)、旧川の堤外地の障害物除去、局部的拡幅をおこなったのみでした。

<大和川付替え>(1704年 江戸時代)

元禄17(1704)、川下にあたる堺の海側から延長約14km・幅約180mの川筋を、河底を掘り下げるのではなく、堤防を盛り土したり、高台を切り開いたりする方法が多くとられました。はじめは3年がかりかと思われていた工事は8ヶ月足らずという早さで終わりました。場所によっては消滅した土地もありましたが、付替えから5年後には約1,060町歩(約1,050ha)の新田が開発されました。(第3回「河内湖」にも記載)

<熊野街道>

平安から鎌倉、室町にかけてはこの四天王寺や住吉大社、熊野に詣でる人たちは上町台地の西にあった渡辺津(八軒浜 今の天満橋)で船を下り、そこが熊野街道の基点であった。

<石山本願寺>

戦国時代から安土桃山時代にかけて、上町台地北端に蓮如により石山本願寺が開かれ、商工業が発展し、全国の浄土真宗の総本山となる。その後、石山本願寺は織田信長による10年にもわたる激しい攻撃の末、ついに陥落した。

<大坂城>

豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に大坂城を築いたが、三方を河川・湿地に囲まれていたが、南はなだらかな上町台地に開かれており城郭防衛上の弱点となっており、総構えとしてこの上町台地に堀を掘削する工事を行った。また、徳川家康(茶臼山本陣)による大坂城攻め(大坂冬の陣)の際、真田信繁が総構えから大きく突出した丸馬出「真田丸」を築城して弱点を補い、攻める徳川勢に多大な損害を与えた。

 

 

 

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次回は 第3回「琵琶湖」

 

 

(担当 G)

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