『近畿の地質的景観』
第1回
<河内湖>
古代大阪は、海岸線が平野部まで深く入り込み、上町台地が半島のように突き出し、その東に河内湾と呼ばれる内海が広がっていました。古墳時代になると、河内湾は淡水化し、潟となってやがて河内湖へと姿を変えました。淀川や大和川の度重なる氾濫により、土砂が堆積し形成された河内湖は、変遷を重ねて出来た地形でした。
● 約1万~7000年前(縄文時代 草期)
1万9000年前から始まった「縄文海進」のピーク時(6500年前)は、大阪湾の海水が淀川沿いに京都市まで入り込んでいました。奈良盆地は、山に囲まれた奈良湖を形成していました。奈良湖は隆起で標高が高く、海水が流入することはありませんでした。
7000年前の海面は、最も寒かった2万年前より120~130mほど高かったと考えられています。大阪市鶴見区ではクジラの化石が見つかっています。
● 約7000~5500年前(縄文時代 前期)
上町台地が半島のように突き出し、大阪湾から吹き付ける西風により砂州先端を発達させていきました。縄文海進で、海水面が現在の水位より3mほど高く、河内平野を覆った水面が東は生駒山麓、南は八尾、北は高槻付近まで広がっていました。河内湾です。
● 約5500~4500前(縄文時代 中期)
沖積作用が激しくなり湾は徐々に埋められ始めました。淀川の流送土砂の方が大和川からのそれよりも多く、湾は北から埋まっていき河内潟となっていきました。
● 約4500~3300年前(縄文時代 後期)
大阪湾と隔てる砂州が発達し、徐々に河内潟は塞がれた状態になっていきます。そして淡水化し河内潟から河内湖に姿を変えていきます。
河内湖も次第に沖積作用により埋まっていき、最後に深野池と新開池の最も深い部分を残し平野が発達しました。
● 約1500年前(古墳時代)
5世紀ごろ、難波の堀江開削で河内湖はさらに陸地化がすすみました。淀川や大和川からの流入による洪水を緩和するため、河内湖の水を大阪湾に排水し周辺の水害対策を行ないました。仁徳天皇が難波の堀江運河を作ったと『日本書紀』には書かれていますが、仁徳天皇自体の存在や年代が不明確な以上、そのいきさつは確定的なものではありません。
● 1704年(江戸時代 中頃)
かつて大和川は南から流れてくる石川と柏原で合流し、ここから西北へ折れ久宝寺川(長瀬川)と玉串川(玉櫛川)に分かれて各川や池と合流しながら最後はそれぞれ淀川へと注いでいました。大和川が流れていた河内平野は、川が運ぶ肥沃な土砂のおがけで、古代から田畑が開かれ、人々が生活を営んでいたのですが、常に洪水の危険がつきまとっていました。川の流れで運ばれた土砂が河底にたまり、まわりの田畑よりも河底が高い天井川となっていたことや、河口にも土砂が堆積していくことで大雨時などに川の水が排水されにくくなっていたためでした。
江戸幕府は、北上して河内湖に流れていた大和川を、西の大阪湾に流す計画をたてました。
大和川の付替え工事は元禄17(1704)年2月27日、工事は川下にあたる堺の海側からはじめられました。総延長14.3km 幅約180m 工事日数225日 総工費約143億円。
付替え工事によって、大きな河川洪水も減ったと同時に、流域には5年後には約1,060町歩(約1,050㌶)の新田が開発されました。
このあと深野池と新開池も埋め立てられ、現在は門真市岸和田の弁天池に僅かに河内湖の名残を留めるのみとなっています。今や野鳥観察のスポットになっています。
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次回は 第2回「上町台地」
(担当 G)
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