『北前船』 第13回(最終回)「北前船」の終焉 | 奈良の鹿たち

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『北前船』

   第13回(最終回)

「北前船」の終焉

 

 

「北前船」の終焉は、明治の終わりごろにやってきました。

電報の導入で、遠隔地での価格が売買前に買い手に分かってしまうため相場差で大儲けすることが出来なくなりました。蒸気船や鉄道の普及で大量に速く安全に運べるようになり、遅くて不安定な運航の北前船は姿を消していきました。また、北海道でも農業・工業が勃興し自立可能になってきました。

船主たちは事業転換で生き残りをかけた事業家が現れた一方、そのまま衰退していった名家も少なくありませんでした。

それでも北海道との商取引は明治の初期に最盛期となりました。

それは電信や鉄道、船舶などの近代化が北海道に及ぶにはまだまだ時間がかかり、また北海道の人口の増加で魚肥の生産が急増したためでした。さらに北前船は建造・運用コストが近代式船舶よりも安価であり十分な競争力をもっていました。

それともう一つの存在理由として、鰊・昆布・鮭といった生ものは臭いがきつく、他の商品と一緒に積み込むと臭いのために商品価値が下がるため、船主はこれらの運搬を敬遠し、北前船のみがその役割を担ってくれました。

そして明治の中頃から、西廻り航路の衰退が始まりました。

 

時代とともに北前船の衰退は必然的なものがあったが、われわれは北前船が江戸・大坂から遠く離れた日本海地域に繁栄をもたらし続けたことを認識しなければならなりません。

明治維新のころ、北陸の人口は南関東・畿内に引けを取らない規模でした。

さらに北前船の繁栄は、農業・工業・商業の総合発展を促し、雇用・所得を保証しました。

このように北前船は、地域の独自性を持ったバランスのとれた庶民の豊かさを実現してくれたのでした。

 

 

 

<衰退の原因>

●蒸気船との競合

・北前船は年に1往復、蒸気船は週1往復。

・北前船の海難事故増加(商売不振のため、積載オーバーや無理な運航

・西洋型船への転換が出来なかった(船価が高い、運航操縦に不慣れ)

●電信の普及

・船主以外の買い手、売り手も電信で各地の相場を知ることができるようになった。

・売り上げ不振で売れ残りや揚置ー問屋預け(不良在庫)が増える。

・北海道や日本海側は、電信や鉄道の普及は遅れたが、それもしばらくの間の時間稼ぎだった。

●鰊が北に移動して航行距離・日数がかかるようになった

(江差⇒余市・小樽⇒厚田(石狩)⇒留萌・増毛)

●内地の農業では綿花・藍・菜種が外国からの輸入で栽培されなくなり鰊肥料の需要が減った。

(インドから安い綿が輸入されるようになった。化学染料が使われ始めた。石油・ガス燃料が普及し始めた。)

●北海道での産業の自立が進み、工業・食料・農業生産が多様化し北前船への依存性が低下した。(明治6年に稲作が始まった。セメント・レンガ・ビール・繊維会社が次々と設立された)

 

 

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『北前船」全13回 完

 

 

(担当 H)

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