『北前船』 第5回 「北前船」と鰊(にしん) | 奈良の鹿たち

奈良の鹿たち

悠々自適のシニアたちです

『北前船』

第5回

「北前船」と鰊(にしん)

 

 

19世紀の蝦夷地ではは「鯡」と書かれ「魚に非らず」といわれ、商品価値はコメ(米)並でした。は、春から夏にかけて北海道の日本海側に群来(くき:鰊の群れが海岸近くにやって来ること)し、海は白く濁りました。これは鰊が精子を放出しホンダワラに付着させたために一面乳白色に染まるのです。 

群来で白く濁った海面

  

網元と呼ばれた漁場主の親方は、事前に漁区の権利を買い取り、舟や漁具、鰊加工のための道具、漁師たちの布団などの生活用具・米酒味噌を買い込み、契約した漁師たちへの前払い金など大きな投資が必要でした。もしも買い取った漁区に群来が来なかったら破産でした。しかし当たれば1億円ほどの収入で、今も残っている鰊御殿の主となることができました。この鰊漁も北前船と同じくハイリスク・ハイリターンの商売でした。

漁師(ヤン衆)たちは漁の始まる前に、蝦夷内陸部や東北から集められ、鰊屋敷で寝食を保証されました。

とにかく獲れて獲れて仕方なかったので、浜から鰊の群れまで小舟で何往復もし、浜では降ろされた鰊をモッコで加工場に運びました。モッコは大人用・女用・子供用が用意されていました。生の鰊は水分を含んで重かったのですが、運んだ回数で賃金が支払われたため、背負いながら食事をし陽が暮れるまで何往復もしました。当時この時期、地元では子供まで住民みんなが鰊漁に従事し、鰊は音に敏感なので群来を散らないように、お寺の鐘もその時期は鳴らさなかったそうです。浜は一面獲れた鰊で覆いつくされ、猫も跨いで歩いたといわれています。

鰊漁は江戸時代中頃まで江差で主に獲られていましたが、群来が積丹半島から小樽・厚田、そして留萌とだんだん北上していきました。

これら網・手鉤などの漁の道具、釜などの鰊加工具、布団・畳などの生活用品・米・酒・塩・味噌などの食品・鰊御殿主の豪華調度品などはすべて、北前船が運んだものでした。

鰊の中でも、大きいものは身の部分は裂いて身欠鰊(みがきにしん)として食用にし、残りの鰊はで煮て油分と水分を圧搾〆粕(しめかす)として肥料になりました。当時、内地では農業の商業化で菜種、イ草、綿花、藍、みかん、桑などが盛んに栽培されていました。米作や商業作物には価格・効果の面で肥料としてのニシン粕は抜群の人気がありました。

 

※ 小説『鰊漁場』島木健作

※ 民謡『ソーラン節』(♪ニシン来たかとカモメに問えば・・・・・)

※ 歌謡曲『石狩挽歌』 作詞:なかにし礼 作曲:浜圭介 歌:北原ミレイ

           (♪海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると・・・・)

 

 

 

 

====================

次回は 第6回「北前船と船主たち①」

 

 

(担当 H)

====================