『北前船』 第3回 「北前船」の船と航海 | 奈良の鹿たち

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『北前船』

第3回

「北前船」の船と航海

 

 

商船とはいっても150~200トンくらいで、マストは1本の木製の船でした。製造費は1千両(1億円)といわれています。当時、幕府が大型船の建造やマストの規制を行っていました。

北前船に乗っていたのは、船の最高責任者「船頭」を筆頭に、航海士「表(おもて)」、水夫長「親父」、事務長「知工(ちく)」の三役と、一般の船乗り「水主(かこ)」そして最下級の炊事・雑用係「炊(かしき)」で合計10~15人でした。航海中は夜も6時間交代で船の監視につき、港に着いても船頭以外は船中泊という厳しい仕事でした。給料は、船頭でも1年で現在の20~30万円と安かったのですが、船頭には個人の商品を積む権利が与えられ、その売買の利益を自分のものにできました。他の乗組員には、船の売上げの5~10%を「切出」というボーナスとして分配されました。単純に計算すれば、千石積みの北前船なら全売り上げは千両、その10%の百両(約1,000万円)が分配されるのですから、淡路島出身の高田屋嘉兵衛のようないずれ自分の船を持つことを夢見た若者もいました。
しかし、雇用の条件は船主と同じ村の出身者に限られました。安全で迅速な航海と利益確保を図るためには、身元の確かな人材が必要だったのです。

北前船の船主や乗組員の多い北陸では、春祭りが終わると雪解けを待ってそろって大坂に向かいました。ほとんど徒歩でしたが、峠の多い敦賀までは船を利用することもありました。そこから琵琶湖の西を歩き、京都では航海安全を祈って寺社参りをし、大坂へは5、6日で着きました。そこで1ヶ月ほどかけて、フナクイムシ退治のため真水の木津川に浮かべていた船や帆の修理、積荷の買い集めをします。

そして3~4月ごろ蝦夷に向けて船立ちをします。各寄港地で塩、蝋燭、酢醤油、生活用品などをさらに買い集めていきます。下関をまわる時、これからの日本海を無事乗り切れるようにと、裸で「角島(つのじま)まいり」を行いました。

船が故郷の北陸を通過するときには、小舟を出して船主に挨拶をし家族には上方土産を渡しました。

能登半島をまわって2週間ほど経った6~7月ごろに蝦夷に着きます。積んできた荷を売りさばき、蝦夷で5~6月に獲れた鰊や昆布などを買い入れます。

8~9月には大坂に向けて出帆します。途中、寄港地で積荷の海産物を売りながら台風を避けて、出来るだけ早く波の荒い日本海を抜けて瀬戸内海に入ります。瀬戸内海各地では、蝦夷の海産物の需要が高く、大きな商いになりました。積荷の売買は廻船問屋に依頼して行うため、廻船問屋は北前船一行を上得意扱いしました。

片道3~4ヶ月、往復6~8ヶ月。大坂には11月~12月に到着します。大坂でも積荷を売り、船を預けて郷里に帰るのは晩秋になります。途中、山中・山代・粟津温泉で疲れを癒しました。

とにかく木造帆船で風まかせ潮まかせのため、「戸板一枚下は地獄」といわれ海難事故(「船がおちる」)が絶えませんでした。嵐に遭遇すると、積み荷を海に投棄したり帆柱を切ったりしました。しかしそれでもダメな場合は、髷(まげ)を切って唯々神のご加護にすがるしかありませんでした。

そして無事帰ることができると、船絵馬や髷額(まげがく)を神社に奉納しました。各地の寄港地の神社には、今でもそれらが掲げられています。

兎にも角にも航海の無事を願って、神仏や縁起は船主・船頭にとって欠かせないものでした。日頃から神社へ灯籠や狛犬などを奉納し、仏教的善行のご利益を求めて地元への寄進を怠りませんでした。

 

波風まかせの不安定な航海だったことが、各地の港町にはそれが幸いして大いに栄えました。

天候加減や商品の売買、船の修理で何日も滞在しなければならなかったために、廻船問屋・船大工・荷揚げ人足・鍛冶屋・雑貨屋そして料亭・遊郭などには、船の入港のその都度、繁盛をもたらしました。船が来ると帆に描かれた屋号を見て、取引問屋や宿屋などがお得意様として上げ膳据え膳で迎えました。

 

湊町の遊郭といえば遊女たちが集まるところです。

広島県呉市御手洗(みたらい)は、瀬戸内海一の北前船の風待ち湊・潮待ち湊でした。

記録によると1768年(明治時代の100年前)、町の人口543人中遊女が94人。最盛期には300人ほどいたといいます。 また、遊女には「おちょろ船」という小舟に乗って沖の船まで出張に行くものもいました。こちらの方が安いので、下船を許されない多くの船乗りには都合が良く、船に乗り込むと遊女はまさに「一夜妻」として食事の世話から裁縫、洗濯までしたと言われています。

兵庫県室津(むろつ)の湊も、江戸時代には風待ち湊・潮待ち湊として北前船、参勤交代の大名の船、朝鮮通信使の船、姫路藩の船で埋め尽くされ、宿が「室津千軒」と言われるほど繁盛したといいます。室津湊は「遊女発祥地」として色々な伝説や悲話が残っています。

井原西鶴の「好色一代男」の作中では、室津は西国一の湊なので昔より遊女が増え、行儀も大坂に引けをとらないと続き、室津の遊郭の話がつづられています。

「好色一代男」に描かれた室津の遊郭

 

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次回は 第4回「北前船の積み荷」

 

 

(担当 H)

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