『北前船』
第3回
「北前船」の船と航海
商船とはいっても150~200トンくらいで、マストは1本の木製の船でした。製造費は1千両(1億円)といわれています。当時、幕府が大型船の建造、マストの規制を行っていました。

北前船には15人ほどの乗組員が必要でしたが、船主の信用のおける縁者や地元の者を雇い入れるのが習わしでした。船の中の労働条件や船員間の上下関係は厳しく、立ち寄った湊で逃げ出す者もいました。
北前船の船主や乗組員の多い北陸では、春祭りが終わると雪解けを待って、そろって大坂に向かいました。ほとんど徒歩でしたが、峠の多い敦賀までは船を利用することもありました。そこから琵琶湖の西を歩き、京都では航海安全を祈って寺社参りをし、大坂へは5,6日で着きました。そこでに、フナクイムシ退治のため真水の木津川に浮かべていた船や帆の修理や積荷の買い集めを1ヶ月ほどかけてします。
そして3~4月ごろ蝦夷に向けて船立ちをします。各寄港地で塩、蝋燭、酢醤油、生活用品などをさらに買い集めていきます。下関をまわる時、これからの日本海を無事乗り切れるように裸で「角島(つのじま)まいり」を行いました。
船が故郷の北陸を通過するときには、小舟を出して船主にあいさつをして、家族には上方土産を渡しました。
能登半島をまわって2週間ほど経った6~7月ごろ蝦夷に着きます。積んできた荷を売りさばき、蝦夷で5~6月に獲れた鰊や昆布などを買い入れます。
8~9月には大坂に向けて出帆します。途中、積荷の海産物を売りながら台風を避けて、出来るだけ早く波の荒い日本海を抜け瀬戸内海に入ります。瀬戸内海各地では、蝦夷の海産物は需要が高く、大きな商いになりました。積荷の売買は、廻船問屋に依頼して行うため、廻船問屋は北前船一行を上得意扱いしました。
片道3~4ヶ月、往復6~8ヶ月。大坂には11月~12月に到着します。大坂でも積荷を売り、船を預けて郷里に帰るのは晩秋になります。途中、山中・山代・粟津温泉で疲れを癒しました。
とにかく木造帆船で風まかせ潮まかせのため、「戸板一枚下は地獄」といわれ海難事故(「船がおちる」)が絶えませんでした。嵐に遭遇すると、積み荷を海に投棄したり、帆柱を切ったりしました。しかしそれでもダメな場合は、髷(まげ)を切って、ただただ神のご加護にすがるしかありませんでした。
そして無事帰ることができると、船絵馬や髷額(まげがく)を神社に奉納しました。各地の寄港地の神社には、今でもそれらが掲げられています。
兎にも角にも、航海の無事を願って、神仏や縁起は船主・船頭にとって欠かせないものでした。日頃から神社へ灯籠や狛犬などの奉納、仏教的善行のご利益を求めて地元への寄進を怠りませんでした。
波風まかせの不安定な航海だったことが、各港町はそれが幸いして大いに栄えました。
天候加減や商品の売買、船の修理で何日も滞在しなければならなかったために、廻船問屋、船大工、荷揚げ人足、花柳界、鍛冶屋、雑貨屋など船の入港は、その都度町ににぎわいをもたらしました。船が来ると、帆に描かれた屋号を見て、取引問屋や宿屋などがお得意様としで出迎えました。
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次回は 第4回「北前船の積み荷」
(担当 H)
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