『北前船』
第2回
「北前船」以前の蝦夷と日本海沿岸
日本海側の交易は、弥生時代から奈良時代まで朝鮮半島や出雲~糸魚川の交流が伝えられています。鎌倉時代には幕府が日本海側で船を走らせていました。戦国時代でも東北・北陸の豪族たちは、いかにして人・物を動かすか、いろいろと試みました。江戸時代も上方で米の売買をするため、東北・北陸諸藩は米をどのように効率良く運ぶか、苦心していました。古くからの敦賀-琵琶湖-大津-淀川-京阪神の「短距離水陸積替えルート」がありましたが、荷物の積替えや陸路での運搬が大変な重荷になっていました。河村瑞賢によって西廻り航路が開かれ、大量に速く運べるようになり日本海-下関-瀬戸内海-京阪神の「遠距離海運ルート」の経済性が優位になりました。
蝦夷地での漁業取引は、既に商人たちが漁場の請負経営や本州との商売を行っていました。松前藩の蝦夷地では、「場所請負制」のもとで漁業が行われていました。「場所請負制」とは、松前藩が漁業やその交易を商人に請け負わせ、場所請負人は運上金を藩に納める制度です。
<場所請負制>
場所請負人の商人たちの中でも、近江商人と江戸商人が大きな地位を占めました。彼らは漁業生産、販売、輸送を一貫して行う総合商社でした。先駆的場所請負人に雇われて、その運搬輸送(手船)を越前・能登・加賀の船乗りたちが担っていました。この船乗りたちが、ここから船主として独立し商売を身につけて北前船として活躍したのでした。
蝦夷の開拓とアイヌとの関係を切り離すことはできません。
当時の蝦夷地の労働力はアイヌ以外になく、場所請負人は支配場所に住むアイヌを使役して鰊粕生産にあたらせました。アイヌの多くは商人資本の下で漁業労働者となることを余儀なくされ、場所請負人たちの中には、利益を上げるためにアイヌを奴隷のごとく不当に扱いました。アイヌへの差別は、この頃からひどくなり、上の絵図でも土間で常に本土の人間(和人)に平伏しているのが分かります。ここからアイヌの差別・悲劇が多数生まれました。
江戸時代の儒教的身分制度による賤民思想が、松前藩のアイヌへの狡猾な圧政に反映されました。明治32年のアイヌ人保護を謳った「北海道旧土人保護法」は、アイヌ人を和人に同化させるための法律でした。「土人」から「先住民族」に変わるためには、つい最近の平成31年(2019年)の「アイヌ新法」制定まで待たなければならなかったのです。
●シャクシャインの乱
1669年6月 シャクシャインをリーダーとしてアイヌの一斉蜂起がありましたが、松前藩の騙し討ちでシャクシャインは殺され、蜂起も鎮圧されました。
●クナシリ・メシナの乱
1789年5月、クナシリ島のアイヌが一斉に蜂起し、松前藩士をはじめ場所請負商人”飛騨屋”の現地支配人・通辞・番人らを次々に殺害しました。さらにメシナ標津付近のアイヌも加わり、海岸沿いにいた支配人、番人らをも殺害しました。このあたりにいた和人のほとんど全てが殺されました。松前藩は派遣部隊で鎮圧した後、蜂起に関係した指導者たち37人全てを処刑しました。
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次回は 第3回「北前船の船と航海」
(担当 H)
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