『量子』 第2回 量子の振る舞い ① | 奈良の鹿たち

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『量子』第2回

「量子の振る舞い ①」

<「波」と「粒子」の二面性>

~量子は「粒」でもあるし「波」でもある~

 

  

<粒子性> 

「粒子」というものはある瞬間に特定の一点に存在する。(「粒子」という物質は存在する)

「光は粒子のような性質を持つ光子の集合である。」 (アインシュタインの「光量子仮説」)

そして光子は量子の一種なのだ。

 

星が見えるのは、光が粒子(光子)だからだ。それが我々の目に届いて見ることが出来るのだ。

 

<波動性>

量子は現象としての「波」でもあるのだ。

「波」は振動が周囲に広がりながら伝わっていく現象。

「波」の状態のときには、そこには物質は存在しないということになる。

「波」はそのままでは何時かは勢いが弱まり消滅する。

 

色が見分けられるのも、X線でレントゲン写真が撮れるのも、紫外線で肌が焼けるのも、マイクロ波で電子レンジが使えるのも、電波で携帯電話が使えるのも、すべて光が電磁気の波だからだ。

 

この量子の「粒子性」と「波動性」の現象は、次項の「二重スリットの実験」で具体的に顕著になる。

 

<二重スリットの実験>

二つの隙間スリットの空いたボードを通して、波を送るとその先の壁には模様(干渉稿)が現れるとする。 次に同じスリットボードを通して、量子のひとつである電子を次々と送ると、その先の壁にも干渉稿が現れるとする。問題はどのような模様になるか?だ。

● 波ならば

● 粒子ならば

  

干渉稿は波の場合は納得のいく結果だったが、粒子の場合は予想外の結果だった。

粒子なので二重スリットを通った後は、干渉もなくそのまま2本の干渉稿が投影されるはずだった。 

しかし実際は、始めのうちは粒子の点の跡が残るが、次第に点の数が増えてくると、波の時と同じ3本の干渉稿が現れた。

  このことは何を意味するのだろうか?

   ~ 量子は「粒」でもあり「波」でもあるという二面性を持つ ~

  ということになる。   (「粒」の時と「波」の時があるということではない)

 

<一つの電子が同時に2つのスリットを通る>

もう一点、不思議なことがある。

それは次回お話しする量子の「状態の共存(重ね合わせ)」という現象だ。

種明かしをすると、発射した一つ一つの粒子は、同時に両方のスリットを通過しているのだ。

分身の術ではない。分かれたのではなくて、本体が2つのスリットを通る状態を重ね合わせで起こしているのだ。一つの電子が同時に他の場所に存在するということなのだ。

 

 

 

量子論にはさらに「観測の問題」というやっかいで不可思議な問題がある。

  

<観測の問題>

粒子(電子)の状態を見るために、観測器を設置して先程と同じように、粒子(電子)を二重スリットに向けて打ち込んだ。  

すると結果は、何と3本ではなく2本の干渉稿が現れたのだ。

観測器を置く前は3本だったのが、逆転のまた逆転。

ボールを投げたように、干渉もなくそのままの投影稿になった。 

 

では波動状態の粒子(電子)は、いつ粒子状になったのだろうか?

それは、ずばり「観測された瞬間」ということになる。 

観測していない時は「波」で、観測されると「粒」になるのだ。

一つの解釈として、観測行為では、観測したい対象の粒子に別の粒子をぶつけるなどして場所を特定させる。すると観測前の「波」は、量子論では波動関数で表される「存在確率の波」とされ、場所が特定された途端、波動性はなくなり粒子となるというものだ。

これを「二重スリットの観測の問題」という。

もちろん、人の目で見ても同じことが起こる。

量子は見られると粒子になり、見られていないと波になる。(見られると緊張する恥ずかしがり屋さん?)

観測するということは「波動性を排除し、粒子の姿を観る行為」とも言い換えられる。

  

これらの説は、提唱者の物理学者ニールス・ボーアがいたデンマークの首都コペンハーゲンにある研究所の地名にちなんで「コペンハーゲン解釈」と呼ばれた。

 

<コペンハーゲン解釈>

量子は、いくつかの異なる状態の重ね合わせで存在し、空間的広がりを持つ波を形づくっている。しかし、観測された瞬間に波はしぼみ(波束の収縮)、一つの状態(波か粒)に落ち着く。 

そして、いつどのようにして収縮したかは分からない。収縮の原因として、測定される側に乱れを起こすことなどが考えられるが確定はできない。

なぜなら量子の運動を観測するには、光子などを観測対象に衝突させる必要があるが、そうすると観測対象の運動量を大きく変えてしまい、実験環境に致命的な影響を与えてしまう。その結果、観測の影響のない自然な状況での現象を継続的に観測することが不可能なのだ。

 

要するに 「コペンハーゲン(Kopenhagen)解釈」は

●量子は「粒」でもあり「波」でもあるという二面性を持つ。

●量子はどこにでも確率的に存在し、位置の特定はできない。

(複数の場所に同時に存在できる。複数の状態<波と粒子>を同時にとることができる)

●位置を特定しようと観測行為をすると、観測前の「波」は位置が特定された途端、波動性はなくなり粒子となる。 そのため、見た瞬間に「粒」の存在を確定することができるが、「波」の収縮過程を直接的に観測することはできない。

 

この内容は理論的にはまとまりのある様でしたが、いささか歯切れの悪い結論となっている。

 

 「コペンハーゲン解釈」ならば、次のような疑問が出てきた。

まず、粒子になったのなら残りの波のエネルギーはどこへ行ったのか。

また、Aさんは見ているので存在しているが、Bさんは見ていないので存在していないことになる。

また、「重ね合わせ」の概念がはっきりしない。(後々「シュレディンガーの猫」や「多世界解釈」の評価が問題となる。)

また、「観測された」と波が察知して収縮するまでの速度は、ほぼ同時であり特殊相対性理論の光の速度を超えてしまうことになる。

また、波がなぜどのように粒子になるのか 分からないとしている。

 

 ここでカギとなるのは

  ◉ 「観測」と「収縮」の関連性の提唱案

   ・ (コペンハーゲン解釈)ミクロの量子にマクロな機器で光子という量子を当てると刺激を受けて収縮反応が起きる。   

   ・ミクロとマクロが出会うと収縮反応が起きる。

   ・人間の脳が観測を認識すると収縮する。(フォン・ノイマン)

   ・相対性理論に反して、光以上の速さで波から粒子に移動する。

        

  ◉ 「発見の確率」とは?

    電子の粒子としての発見確率。(振幅が大きいほど発見しやすい)

        

         

      

広がった電子の波は、そのどこでも粒子としての電子が発見される可能性がある。

          例えば  A地点での発見確率 50%

               B地点での発見確率 20%

               C地点での発見確率 10%

                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

               となる

 

量子の波の動きを数学的に表したのがドイツのシュレディンガーSchrödinger だ。

量子の状態を示す空間座標と時間の関数を「波動関数」という。

それを使って時間の経過とともに、電子の波の形や変化を方程式にしたものが、量子論の基礎方程式といわれる「シュレディンガー方程式 Schrödinger equation」だ。 

 

量子のあいまいさは「波動の収縮」「発見の確率」の他に「位置と運動量の不確実性」「時間とエネルギーの不確実性」がある。量子の世界では、観測によって「位置」と「運動方向」、「時間」と「エネルギー」は同時には決められないという法則がある。  

ドイツのハイゼンベルグHeisenbergが確立した「不確定性原理」だ。

①「電子の位置と運動量の、両者の不確かさを同時に無くす(ある程度以上小さくする)のは不可能である」

        

この式は、位置の不確定性⊿xと運動量の不確定性⊿pが反比例の関係になっていて、「こちらを立てればあちらが立たず」の状況を示している。

電子の位置がここだ!と分かった時、どの方向にどれだけの速さで運動しているかは知ることはできない。

 

②「時間とエネルギーを同時に決めることはできない。時間t を短くすれば、エネルギーE のバラツキが増す」

          

 電子がある定まった時刻t に持つエネルギーE を測定するとき、その時のエネルギーE は正確には測定できない。      

 

         

        アインシュタインはこの「コペンハーゲン解釈」に反対する

          

アインシュタインは最後まで「量子論」に対して不信感を持ち続けました。

 

 

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次回は 第3回「量子の振る舞い②」

 

 

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(担当 P)