2024年法隆寺夏季大学講義備忘録2 「法隆寺若草伽藍の建立と罹災」平田政彦先生 | 奈良大好き主婦日記☕

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鎌倉在住
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ライブドアにも書いていました(はなこの仏像大好きブログ)http://naranouchi.blog.jp

 

前記事に引き続き、もう一つ興味深かった講義をまとめてみました

前記事より前、初日の第二講でしたが、法隆寺の若草伽藍に関する内容です

なお、講義では「瓦」の話もたくさん出てきましたが、私は瓦のことがよくわからないため、ここでは触れません

ご興味ある方、発掘調査報告などご覧になってください

 

若草伽藍の塔心礎

 

 

 

 

「法隆寺若草伽藍の建立と罹災 附:〈速報〉令和五年度の発掘調査成果」平田政彦先生

7月27日第二講

 

ここでは前半の座学と、

後半現地でお聞きした話を掻い摘んで書きたいと思います

 

若草伽藍は「法隆寺再建非再建論争」の火種の一つですので、

一つ前の、東野先生の法隆寺再建非再建論争についての講義をまとめた記事を先に読むことをおススメします

 

↓こちらです

 2024年法隆寺夏季大学講義備忘録 「法隆寺再建非再建論争の歴史と意義」東野治之先生 2024-07-31

 

 

 

 

まずは、前半の座学の内容

 

1.若草伽藍の建立

 

西院伽藍は聖徳太子建立の法隆寺(斑鳩寺)と考えられ、

『日本書紀』天智9年(670)四月条には、

「夏四月癸卯壬申 夜半之後 災法隆寺 一屋無余 大雨雷震」

と法隆寺が罹災したことが記されます

(これが、このブログの一つ前の記事で書いた法隆寺再建・非再建論争の重要な論点の一つになっています)

 

・若草伽藍についての記録

延享3年(1746)に法隆寺の僧良訓が著した『古今一陽集』に、江戸時代の観音院の竹やぶの中に「若草」に大きな礎石があったことが記されているそうです

 

『古今一陽集』

 

 

これが、若草伽藍の塔の心礎で(なんか今と形が違う気がしますが)、明治30年代から40年代にかけて寺外に持ち出され、神戸の個人宅の庭石に転用されていました

 

 

2.昭和14年の調査成果と出土した軒瓦について

(このあたり、東野先生の講義とリンクします)

 

寺外に持ち出されていた塔心礎は、昭和14年(1939)、法隆寺に返還されることになり、

石田茂作氏により元の位置を確認するために発掘調査が行われました

 

発掘により、塔心礎のあった付近から塔跡とみられる「掘込地業」(一辺15.5m)が確認されました(「堀込地業」とは「版築」のことで、地盤の強化のために土を突き固める作業のことです)

 

また、塔心礎の北側では金堂跡と思われる、東西22m×南北19mの「堀込地業」が確認されたそうです

 

この二つの「堀込地業」の確認により、若草伽藍は、堂塔が一直線に並ぶ「四天王寺式伽藍配置」であったことが明らかになり、伽藍の中心軸は現在の西院伽藍とは異なる、北から約20度西に傾いたものであることが確認されました

 

 

 

 

 

 

塔心礎の上面中央部には心柱穴、その四方に添え柱穴が掘り込まれています

 

塔心礎を据え付けた穴(心礎穴)はこれまで見つかっていないため、

若草伽藍では、塔心礎を地下に深く据え付ける「地下式」ではなく

基壇内に塔心礎を据え付ける「半地下式」または基壇上部に塔心礎が見えている「地上式」と考えられているそうです

 

これは、ほかの飛鳥時代の寺院の塔とは大きく異なり、若草伽藍の塔については謎が多いということです

 

 

3.平成16年度の若草伽藍跡西方の調査成果と法隆寺罹災について

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発掘調査の場所は、南大門前東側広場だそうですが、

わかったことは、

・塔所用瓦には焼けたものが多い

・反面、金堂所用瓦には比較的焼けていないものが見られる傾向があった

ということで、

若草伽藍の塔が落雷などによって火災が生じ、金堂に延焼するものの全焼しなかった

状況が想像されるそうです

 

また、火災直後に塔及び金堂の一部の焼失した瓦や壁土など火災を物語る生々しいものは、若草伽藍西方の比較的大きな谷間に埋めることによって、火災の片付け(第一次)が行われたということが分かりました

 

 

さらに、

焼けた壁土には、「白土」の塗布が確認され、彩色を施した破片も含まれるそうで、

日本最古の寺院壁画の発見となったそうです(すごい!)

 

↓天寿国繍帳と同じ図柄!(色も同じ)

 

 

この壁画の発見により、

『日本書紀』崇峻天皇元年(588)飛鳥寺建立における技術者「画工白加」の存在や、

推古12年(604)の「始定黄書画師山背画師」の記事により、飛鳥時代初期の段階で絵師の存在が想像されることの裏付けともなりました

 

 


 

〈速報〉令和5年度の発掘調査成果

斑鳩町教育委員会が令和五年度に実施した発掘の調査結果を速報で教えていただきました

(理解できたところを、ピックアップしておきます)

 

調査場所は、〇のところ↓

 

 

ちょうど、塔の心礎の真南位で、塀の外の場所↓

(昨年、学友が発掘中の現場を教えてくれて見てみましたが、覚えてないショックあせる

同じ場所を今年も通って見ましたが、草ボーボーでした)

 

四天王寺式伽藍なので、伽藍の中軸線上で、中門・南門などの建物が想定される場所です

しかし、

発掘しても中門・南門の遺構は確認できず、瓦を含んだ溝が出てきたそうです

溝は、幅約2m、深さ約50㎝で、東西方向に延び、若草伽藍の中心軸(北に対して約20度西に振れる)にほぼ直角だそうです

出土品は、瓦、忍冬文のスタンプを押した用途不明の瓦製品(鴟尾の「ヒレ」か)などだそうです

 

 

 

 

 

このあたりは、宅地化が早く進んだこともあって不明な点が多いとのことでした

しかし、今回の溝の発見は、寺域を考える上で重要だそうです

 

平成16年の発掘では、若草伽藍西方の谷間に火災を物語る生々しい瓦等が埋められたことが分かりましたが(第一次)、

今回の発掘では、火災の後間もなく着手された法隆寺再建の過程において、

解体の進む若草伽藍の建築部材等の再利用の際に不要となった瓦や、

片付けきれなかった一部の焼けた部材などが南側に片付けられた(第二次)

ことが分かったようです

 

若草伽藍所用の瓦での古い時期のものは少なく、新しい時期の焼けていない瓦が比較的多く出土したそうで、この意味するものはなんなのか興味がわきますね…


 

 

 

〈若草伽藍現地でのお話〉

若草伽藍へ移動

暑いので、「体調が心配な人は遠慮するように」と言われながら移動

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平田先生と法隆寺のお坊さん

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ここで先生からお話がありましたので、その時のメモをもとに箇条書きで内容を書いてみます

 

北畠男爵の話(←おもしろい)

・北畠男爵(治房)(雷おやじ)という人が、若草伽藍の南あたりに大きな家に住んでいた(後で調べたところ、布穀園(ふこくえん)と呼ばれる豪邸だったようです)

・北畠男爵は、幕末尊王攘夷派で、天誅組にも参加するような人だった

 

・若草伽藍の礎石がいつ外に出たのか不明だが、北畠男爵は非再建派(二寺説)をとっていたため、再建非再建論争の隠蔽のために出されたか?

・再建派に利する礎石の存在はまずいため、こっそり外に出したのかもしれない

・あれだけ大きな石なのに、運び出された痕跡がないのはオカシイ(目撃者なりが出てもよさそうなのに)

・北畠邸の庭にもそれらしいものはなかった

・おそらく、塔心礎は南(北畠邸?)にいったん収め、ほとぼりがさめてから神戸に売却されたのでは?

 

 

・過去から今回までの発掘の話など

・モンダイの礎石が法隆寺に返還されることになったため、石田茂作と末永雅雄により昭和14年に発掘が行われた

・若草伽藍の北東の隅・南西の隅は寺域外

・石柱は伽藍の真ん中の意味

・基壇ごと沈む

・土壇改良版築がみえてきた

・43、44年には中心伽藍はわからなかった(削られているため?)

・その姿は斑鳩町史考古編に載る

 

 

・(『日本書紀』にある)天智9年の火事の際、金堂は類焼にとどまった←全焼した瓦が出なかったため

塔は燃え切った

 

・塔が燃えたので、若草伽藍が同じ場所に再建されたかどうか議論となった

・太子追善の寺であるから早く(復興させたい)

→そのために、後ろの丘陵を削り、フラットな場所に移そうと考えた(現在の西院伽藍の場所)

 

・若草伽藍の建物・基壇は解体された

・『日本書紀』の編纂に伴い、役人が現地を見た時は「野原」となっていた

そのため、『日本書紀』には、若草伽藍が「一屋無余」(一屋残すことなし)という表現となった

・「全焼」というのは、戦争の時のような様子

 

・再建の際、若草伽藍の部材の再利用が見つかる(太子の意志の再建ということで)

・火災の片づけは、はじめは若草伽藍西方の比較的大きな谷に埋められた(焼けたものが多い)

 

・その後、再建の過程で不要となった瓦などは、若草伽藍南方域に片付けられた(西側よりもこちらの方が投棄されたものが多い)(こちらが今回の発掘の場所)

 

・塔心礎には穴があるはずだが、ない

鈴木(嘉吉)先生は廻廊式としたが、半地下式だろう

 

 

あちこちから礎石を撮ってみました!

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手を伸ばして、焼石の温度を確かめたくなる

 

 

真っ青な空と白い雲の下に大きな礎石

 

 

 

 

 

数年前の夏季大学の時の写真(iPhoneのカメラの精度が上がってますね)

 

 

今年度の法隆寺夏季大学のレポートはここまでにしたいと思います

 

それにしても、法輪寺・法起寺にも行きたかったなー