2024年法隆寺夏季大学講義備忘録 「法隆寺再建非再建論争の歴史と意義」東野治之先生 | 奈良大好き主婦日記☕

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今回は、夏季大学の講義の中から、東野治之先生の法隆寺論争について、

私なりにまとめた内容をレポートします

必ずしも、正確ではないかもしれませんが、その点ご承知おきくださいませ


法隆寺西院伽藍 金堂と五重塔


↓夏季大学のメモ 字が汚すぎて後から読めないあせる

image

 

 

 

「法隆寺再建非再建論争の歴史と意義」東野治之先生

7月29日第一講

 

法隆寺の再建・非再建論争は、決着済みの印象もあるのですが、東野先生によれば、複雑で終わっていないところもあるそうです

 

この論争は「西院伽藍は天智9年(670)に焼けたのか?」というわかりやすい論点であるため、邪馬台国論争と同様に一般にも広く知られた論争であるそうです

 

 

・明治20年代までの論争

聖徳太子の関係書が火災を推古朝においていたため、推古朝の出来事と考えられ、

明治に入るまでは、法隆寺の論争はほとんどなかったそうです

 

1.前史としての明治20年代

・はじめは再建説

明治20年代の学会の主流は、

・『日本書紀』から、天智9年(670)に火災があった

・『七大寺年表』や『伊呂波字類抄』などから、和同元年(708)頃に再建された

と考えたそうです(再建説)

 

『日本書紀』天智9年(670)の記事

「天智天皇9年 夏四月癸卯朔壬申(三十日)、夜半の後、法隆寺に災す一屋も余す無し。大いに雨ふり雷震う」

 

2.論争の端緒

・非再建説

明治38年(1905)になると、二つの非再建説の論文で論争が開始されました

その二つとは、

関野貞(1868‐1935)

「法隆寺金堂塔婆中門非再建論」『建築雑誌』218号、『史学雑誌』16‐2号)

平子鐸嶺(1877‐1911)

「法隆寺草創考」『国華』177号、『歴史地理』7‐4,5号)

です

 

関野説は、建築の観点から西院伽藍について

・建築の様式が、「推古式」である(唐より古い北魏の様式)

・古い尺度である「高麗尺」を使用した(唐尺×1.2、唐尺は大化の改新以降)

という点を根拠に非再建説をとりました

 

平子説は、干支一巡説(60年で干支が一巡する)に基づき、

『日本書紀』の天智九年(670)は、実は60年前の西暦610年(推古朝)のことであるとしました

つまり、平子説も非再建説をとっています

 

両氏の論文は殆ど同時に出されたそうで、

東野先生は「しめしあわせたのかも…」とおっしゃってました

 

 

・またまた再建説

これに対し、反対説=再建説を唱えたのが、喜田貞吉(1871‐1939)でした

喜田は野武士のような風貌な人だったそうですが、文献史学の人でした

 

喜田は「関野平子二氏の法隆寺非再建論を駁す」『史学雑誌』16‐4号、同年四月)で、

黒川真頼や小杉榲邨(すぎむら)が1899年に提唱した法隆寺再建説に加勢する形で論争に入りました

その背景には、喜田が小杉と同郷の後輩だったことがあるようです

先輩である小杉は後輩喜田に、非再建説への反論を書くことを頼み、喜田は小杉が負けたようにしないよう、せめて「水掛け論」にまで持っていくようにしたのだそうです

 

明治38年は反論に次ぐ反論の年で、「手に汗握る状況」にあったそうです

 

喜田は、様式論の危うさうをを指摘し、文献を主な根拠とすべきであるという立場をとりました

 

また、日本書紀の内容は信頼に値するものであり、西院のスタイルが「推古式」のような古いものであっても、焼失後に古いスタイルで建て直したのではないかという立場をとりました

 

 

・膠着状態の大正時代

ここまで、西院伽藍が燃えた(再建説)⇢燃えない(非再建説)⇢燃えた(再建説)と、花びらの占いみたいにコロコロ変わる状況だった法隆寺論争が、大正期に入ると膠着状態となりました

 

この時代の論争を担ったのは、小野玄妙と、あの会津八一の二人

 

小野玄妙現在の金堂の仏像の配置に着目しました(「法隆寺堂塔建立年代私考」『仏書研究』31・33・37・44・47号、1917‐1918)

・東の間、薬師如来像は、光背裏面銘文から、太子の父用明天皇が自らの病気平癒を願ったものの、用明亡き後の推古15年(607)、推古と太子により完成

釈迦三尊像(止利仏師)は、光背裏面銘文から、推古30年(622)聖徳太子発病に伴い病気平癒を願って造り始め、翌年623年、亡くなった太子の追善を願い完成

・西の間 阿弥陀三尊像は鎌倉時代のもの(論外)

 

小野はこれらの仏像の配置から、金堂の火災皇極天皇2年(643)、蘇我入鹿の軍勢による斑鳩宮焼き討ちの時点のものと考えました

その理由は、金堂が薬師如来がつくられた創建時(607年)のものであるとすると、(仏像に対して建物が)大きすぎるガーンというものです

 

大きな金堂に、薬師がポツンといるのはオカシイ

⇢西院伽藍は創建時のものではない

643年蘇我入鹿が山背大兄王のいる斑鳩宮を焼き討ちした際に全焼したもの

⇢その後、金堂は時間をかけ、和銅初年頃、今の形に「立ち上がった」

というのが小野説で、火災の年代を従来の考え(670年)より30年引き上げて考えています

(ところで、小野玄妙ってあの膨大な『大正新脩大蔵経(大正蔵)』を編纂した一人なんですよね…)

 

会津八一は、小野の説に追随し、

『法隆寺 法起寺 法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫、1933)において、

金堂伽藍が建立当時のものとするとオカシイという点から論をすすめているそうです

(会津八一は3つの論文をまとめたそうですが、彼の論文の特徴は素人が読んでもそれなりに理解できるような書き方にあるそうで、実際に東野先生は中学三年の時にこの論文に惚れ込んだそうです…)

 

会津八一は、小野説の疑問点を発展させ、かつ、文献と実物の議論を融合させようとしました

 

「火災」を推古15年(607)から推古18年(610)西院伽藍は推古末年の造営とし、

皇極2年(643)に火災はなかったと考えました(これ、小野説の否定となってるように思いますが)

会津説は、文献批判としては甘く、本が出た当初から反論が相次ぎ、結論は完全否定されているそうですショック(あーらら…)

 

火災年代についての会津説は間違いであるものの、

「建築、仏像などの様式(スタイル)をどう考えるか?」という観点での会津の史料批判の方法は有益だったそうです

会津は、法起寺路盤銘(『太子伝古今目録抄』所引)を丁寧に復元することによって、法起寺の塔が7世紀後半の建物の様式を持つ、8世紀初めの建物であると結論しました

 

会津は、建築や建物の様式が「一時代に一つ」とは限らないことを実証したのです

 

東野先生は、

この時代、中国や朝鮮半島から取り入れた様式を消化する間に、また新しいものが流入し、

併存する状況は大いに考えられるものであり、

美術史が(現在でも)様式が時代と共に「発展」し「展開」すると考えがちなことはちょっと問題であるとおっしゃっていました(たしかに!)

 

ついでに、会津八一は、歌人であるだけでなく、早稲田の美術史の学者さんとしても有名なんですよね

東野先生も、もし会津八一が早稲田の美術史にいらっしゃるのだったら早稲田に行きたかったそうです(それこそ、年代がずれましたね)

私も早稲田出身なので(法学部だけど)、会津八一の歌には思い入れがあります(だが、大して知識はない)

 

 

3.新非再建論と若草伽藍跡

昭和に入ると、新たに非再建論が出されました

 

二寺説

足立康(1898‐1941)は、昭和14年以降、いくつかの論文で新たに二寺説を主張、これは会津説を念頭にした新説だったそうです

 

その内容は、

薬師如来を本尊とする太子創建の法隆寺が現若草伽藍跡にあり(「釈迦堂一廓」)、天智九年(670)に焼失

・670年より前、推古朝末に、現西院伽藍の地に、太子追善の釈迦三尊を本尊とする堂(「釈迦堂」)が建てられ、それが発展したのが西院伽藍である

 

つまり、当初は二つの寺があったが、そのうちの若草伽藍が焼失、その後寺の中心が西院伽藍に移ったとするものです

 

・若草伽藍の発掘開始

この足立説は従来の説をうまく折衷した説で、これにより問題が解決したかと思われた矢先に、

若草伽藍の発掘が行われ、同時に外に出されていた礎石が返還されました

 

返還された礎石(明治以降寺外に出された)の設置位置をめぐり、石田茂作の指揮下、若草伽藍の発掘が行われ、次の点が明らかになりました

・塔の背後に金堂を置く四天王寺式の伽藍

・中軸線は正方位から西に約20度偏る

・規模は西院伽藍の塔・金堂とほぼ等しい

・法隆寺の天智9年(670)焼失は、これによってほぼ確定

 

この結果により、足立説は「さあ大変!」窮地に陥りました

何しろ、中軸線が20度もズレながら、二つの寺が併存するなんてことはありえません

(このあたりで、この土地の有力者で雷おやじと呼ばれた北畠男爵が活躍(暗躍?)するようですが、それはまた夏季大学の別の講義に絡めて書こうと思います)

 

足立は病没し、太平洋戦争が始まったことで、論争はいったん終息

 

 

4 戦後の新再建論

戦前の若草伽藍の発掘結果や、法隆寺大修理(昭和9‐31←長いねえ)の成果により、議論が再開されました

 

※このあたりから講義の残り時間が少なくなり、少し端折ったお話になりましたので、その通りに書きます

 

・新再建説

建築史の立場から、

福山敏男鈴木嘉吉は、「西院はやっぱり古い」という考えを復活

二つの寺が同時並行で存在したのではないか?と考えたそうです(話を蒸し返しましたね…)

 

福山敏男は、斑鳩宮(東院下層)出土瓦を7世紀前半、若草伽藍跡の瓦を7世紀中ごろ、西院伽藍の瓦を7世紀後半と位置づけ、天智9年(670)の火災を疑い、皇極2年(643)の斑鳩宮焼き打ちと同時と想定しました

そして焼失後まもなく、7世紀中ごろから金堂の造営が長期にわたり行われたと考えました

そのため、金堂壁画は同時代の初唐の様式、四天王は六朝様式、釈迦三尊は5世紀終わりから初唐にかけての南北朝様式と時代がずれるのだそうです

(「法隆寺の創立」1952、『日本建築史研究』再録)

 

鈴木嘉吉も、西院伽藍は斉明朝(655‐)ごろ以降、長い年月をかけて8世紀初めに完成したと考えました(「法隆寺新再建論」『奈良国立博物館研究所編『文化財論叢』Ⅱ、1995)

 

・年輪年代法による測定

鈴木説発表後、年輪年代測定が行われ、

金堂天井板は用材の伐採が天智火災(670)直前中門の部材は7世紀末の伐採という結論が出されたそうです

 

・東野先生の指摘

前2説が、金堂の完成が長い年月を要したとしたことに対し、東野先生は疑問を抱かれたようです

・年輪年代法は伐採年であり、建築年ではない

金堂用材の伐採年代については、616‐667という年代が出てきており(『法隆寺金堂古材調査報告書』2022)、天智火災の670年より60年近く前に伐採・保管されていたことになります

五重塔心礎については、推古天皇2年(594)という結果が出てきて、こちらも木を枯らすため長い間保管されていたとも考えられます

(実際に現代の仏師さんも、50年くらい用材を寝かせるのが理想といっていたような気がします)

 

・長い年月をかけた造営は不可能

福山説によると、金堂の造営の順番は次のようになります(①~④は、私がつけた番号です)

①金堂中尊・阿弥陀の天蓋(6世紀北魏後期から東西魏の様式)

⇢②金堂内支輪板の文様(7世紀初唐様式)

⇢③金堂、内外陣や小壁の壁画(初唐様式)

⇢④軒瓦文様(7世紀半ば百済様を脱した様式)

このような順番で、半世紀かけて順次完成したことになりますが、

「そんなことは可能か?」というのが東野先生の指摘

 

金堂に天蓋が設置され、仏像が安置される(①)と、上部の彩色作業(②③)は一旦それら(天蓋、金銅仏)を除去したうえで行わなければ(邪魔になって)不可能なのです

 

壁画についても、内陣小壁は上記と同様なことが言えます

外陣の大小壁に関しても、「描くためには一定程度の引きが必要」(距離を置いて眺めて確かめるようなことと思います)なので、「須弥壇がつくられ仏像が置かれた後には、もう一度撤去が必要」となってしまいます(金銅仏は重いこと、お忘れですか?って感じよね)

 

つまり、金堂内部の荘厳は、一体的に進行する必要があり、長期にわたって徐々にすすめられるような仕事ではない

すなわち、福山説は無理!ということになり、新再建論も大きな欠点があることになります

(このような観点は、盲点になりやすいと個人的に思いました。それに気づく東野先生は頭の良い方だなと感心しました…僭越ですが)

 

5.法隆寺論争の現在

従来、法隆寺論争は様式を重視することへ偏りがちでしたが、

当時の日本は同時期に外来の複数の様式が併存した状況にありました

一直線に一方向に展開するというものではないということです

 

古い様式をとり入れて建築したのは「太子の時代への復古」の想いからであり、

法隆寺は「太子を祀る寺」なのです

 

東野先生の「文献史料からみた法隆寺の火災年代」という論文には、本件に関する詳しい考察が書かれていました

『日本古代史料学』(岩波書店、2006)に収められています

今、その本が手元にないため内容を書くことができませんが、ご興味ある方はぜひ「解読」に挑戦してみてください

この本は、以前、奈良大通信制に在籍していた時のテキストで、全部読み終えるまでにそれはそれは苦労した本でした

内容はすっかり忘れてしまいましたが、難しかったという思いは今でも消えません

 


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