どこまでが史実かどうかは別として、
今回は まだ十代の女の子まひろが恋心と理性の間で揺れ動く姿が痛々しく描かれていました
今回のタイトルは「まどう心」
これぞ、恋愛ドラマ
まひろと道長の切ないシーンはラストに近いところ
↓いつもの場所で逢引きする二人(ほんとすごいわ)
道長がまひろに言います
道長「妻になってくれ」
道長「遠くの国へは行かず 都にいて 政の頂を目指す」
まひろ「それは私を北の方にしてくれるってこと?」
ついに歴史改変かと思いましたが
よくよく聞いてみると「北の方」ではなく「妾(しょう)」になれという
道長、ずるいぞ!
「……妾になれってこと?」
道長「北の方は無理だ」
まひろを妾にしても「俺の心の中では一番」だという
ちなみに、将来の旦那様である宣孝にも
金持ちの「妾」になることを勧められているから
この選択はアリなんでしょう
少なくとも経済的にはある程度安定するだろうし
当時の女性としては名誉でもあるんだろう
道長が、北の方は無理にしても一番大事にするというのに対して、
まひろは「遠くの国はいや」「偉くなって」「北の方じゃないといや」
せっかく妻になれと言ってくれた道長も
道長「ならばどうしろというのだ!」
うーーん、これで歴史改変は避けられたものの
十代のまひろにとって、
イヤイヤ尽くしの彼女の返事はわがままなんだろうか?
まひろのこの、一見矛盾に見える、妥協のない「イヤイヤ」返事は
若気の至りとか浅はかさなどではなく、
この先の彼女の人生のくやしさを先読みした結果、出てきたことばだったんでしょう
実際、この先道長は倫子を正式の妻とするのだから…
↓倫子も、まひろには内緒だけど、道長が好きなのだ(嗚呼、三角関係!)
もし、まひろが道長の妾になっていたら、
まひろだけでなく、視聴者も一緒に、ちょっと悔しい気持ちになってしまったでしょうね
…ということで前置きが長くなりましたが、また今回の内容をざっと流してみたいと思います
寛和の変その後
・花山天皇の出家
前回、不覚にも騙されて、頭を剃ってしまった花山天皇
彼もまた十代だったので、ワルい大人たちにはめられてしまったということでしょうか
今回は、出家して「花山院」として登場しました
↓頭を丸めた花山院
花山院は、書写山円教寺に移ります
これが
↓書写山円教寺
(昨年9月の特別公開の時、行ってきました…私にとって、初姫路でした!)
寺の説明にも「大講堂は花山法皇の勅願により寛和二年(986)に建てられた」とあります
↓その大講堂(当時の建物ではありません)
花山院は書写山円教寺の後、延暦寺で灌頂受戒し法皇になりました
『日本紀略』寛和二年
「七月二十二日、法皇微行す。播磨の国書写山に赴く。証空上人に謁す。十月日。法皇、天台山戒壇院に於て、回心戒を受す」
・F4登場
さて、なんだか久しぶりに眼福のF4が登場しましたね
寛和の変が夜中の出来事だったため、F4の面々(道長除く)が何が起きたのかについてひそひそ話をしています
語っているのは、公任様
公任「あの日の明け方 道長が
帝が譲位されたことを父に知らせるため 馬を駆って我が屋敷に参った」
藤原公任は関白藤原頼忠の息子です
イケメンで教養もあり、スポーツマンで、血筋の良い公任様
まひろには悪いけど私なら公任様を選ぶわねえ
倫子ちゃんもそうしたらいいのに…(それこそ歴史改変だわ)
↓F4の血縁関係(ドラマのF4は、道長、公任、斉信、行成)
複雑に絡み合いながら、みんな親戚なんですよね
・F4の藤原行成は道長の書写係
ドラマの中で、行成は詩経の書写を行い道長に差し出していました
行成「この前 頼まれました 詩経を写してまいりました」
キレイな字ですねえ
藤原行成は、実際、道長の書写係をしていました
藤原行成の著『権記』には、道長が行成に書写を頼んでいる記事が残っています
『権記』寛弘6年(1009)三月一日条
「…左府(道長)に故九条殿(藤原師輔)の御日記(『九暦』)十二巻を献上した。先日の命によって、書写させたものである。『西宮記』二巻を借り申した。」
行成は藤原師輔の日記(『九暦』)十二巻を書写し道長に贈り、それと差し替えに、
次に書写する『西宮記』を借りたのです
行成の書写が現代にも伝えられているのは、背景にこういった事情があるのかも知れませんね
露骨な人事
長い長い苦労の果て、小狡い手段を取りながらも、兼家はようやく権力を手中に収めました
そこで素早く行ったのが。「直廬(じきろ)」の設置と「臨時の除目(人事)」
ここでは、兼家による露骨な人事を見ていきましょう
まずドラマでは、こうなっています
「一の座は 摂政 藤原兼家」(イエーイ)
「次いで 太政大臣 藤原頼忠」(小野宮流)
「左大臣 源雅信」(宇多天皇の血を引く、倫子のお父さん)
「右大臣 藤原為光」(兼家の弟、F4斉信のパパ)
「権大納言 藤原道隆」(中関白家、兼家の長男)
「参議 藤原道兼」(兼家次男)
ナレーション
「兼家は息子たちを露骨に昇進させていった」
即位式はこれからのようです
公卿たちが向かい合って並ぶかわいい景色(いつ見ても、エモい景色だ)
ドラマにも描かれた、寛和の変のあとの兼家による一族ひいきの露骨な人事
これを『公卿補任』で確認したいと思います
寛和の変前後の連続する人事を4つ取り上げて、主な人物の昇進を見てみましょう(なんだか生臭い気がしてきたけど)
ピックアップする時期は、掲載順に
❶寛和の変の前 永観2年(984)(寛和元年)4月、
❷寛和の変(986年6月23日)直後、
❸一条天皇即位後(寛和3年(988)4月、
❹それより後の永延二年(988)まで
とします
『公卿補任』の内容をよく見たい方は、拡大してご覧ください
❶寛和の変前、永観2年(984)(寛和元年)4月
関白太政大臣 従一位 藤原頼忠(62)
左大臣 正二位 源雅信(66)
右大臣 正二位 藤原兼家(57)
大納言 正二位 藤原為光(44)
権中納言 従二位 藤原義懐(29)
非参議 従三位 藤原道隆(33)
❷寛和の変(986/6/23)直後
関白太政大臣 従一位 藤原頼忠(63)
摂政(6/24就任)・右大臣(7/20辞任) 正二位 藤原兼家
左大臣 正二位 源雅信(76)
右大臣 正二位 藤原為光(45)
権大納言 正三位(一ヶ月三ヶ度加級例し)藤原道隆(34)
権中納言 藤原義懐(六月二十四日出家)
❸寛和3年(988)4月 一条天皇即位後
摂政 従一位 藤原兼家(59)
太上大臣(前関白) 従一位 藤原頼忠(64)
左大臣 正二位 源雅信(68)
右大臣 正二位 藤原為光(46)
権大納言 正二位 藤原道隆(35)
権中納言 正三位 藤原道兼(27)
非参議 従三位 藤原道長(22)
摂政(兼家公)五男。母同道隆卿。
非参議 従三位 藤原道綱(33)
摂政(兼家公)二男。母正四位下藤原倫寧朝臣女
❹永延二年(988)
摂政 従一位 藤原兼家(60)
太政大臣(前関白) 従一位 藤原頼忠(65)
左大臣 従一位 源雅信(69)
右大臣 従一位 藤原為光(47)
権大納言 正二位 藤原道隆
権中納言 従二位 藤原道兼(28)
権中納言 従三位 藤原道長(23)
非参議 従三位 藤原道長
非参議 従三位 藤原道綱
原文をじっくり見ていただくと
❶→❷→❸→❹と人事の流れがわかります
例えば、頼忠(小野宮流)と兼家(九条流)との力関係は、❸で逆転します
❶❷では、頼忠が関白太政大臣・従一位で、兼家は右大臣・正二位だったのに対し
❷のあと、兼家は右大臣をやめ(7/20)、摂政になり(6/24)、❸❹でトップの位である、摂政・従一位になっています
他方の頼忠はトップの座から引き下ろされ、太上大臣(前関白)という肩書で従一位をキープしています
左大臣源雅信は、❶から❸まで安定の左大臣・正二位で、❹になると従一位に昇進しています
右大臣は、❶から❷の途中(7/20まで)は兼家でしたが摂政になったため、その後は為光が大納言から昇進して右大臣を務めています
為光もずっと正二位でしたが、❹の段階で従一位に昇進しています
兼家の息子たちをみると、まさに露骨な昇進をしています
道隆は❶非参議・従三位→❷権大納言・正三位→❸権大納言・正三位→❹権大納言・正二位
道兼は、(初出)❸で権中納言・正三位→❹権中納言・従二位
道長は、(初出)❸で非参議・従三位→❹権中納言・非参議・従三位
道綱は、(初出)❸非参議・従三位→❹非参議・従三位
となっています
今も昔も政治家の二世は昇進が早いんですねえ
・為時またも無官
ブイブイ昇進する道長たちに比べて、かわいそうなのは為時
兼家からの温情を断り敢えて無官となったのか、それとも単に振り出しに戻ったのか、
為時は花山天皇失脚後再び無官となってしいまいました
再び、彼が官職を得るのは、長徳2年(996)正月二十五日の除目により「淡路守」に任命された時ですが(だいぶ先だ…)
為時自身が「淡路じゃいやだ!」と言ったせいか(『続本朝往生伝』『今昔物語集』『古事談』等)、
はたまた
995年に宋から来た船に対応するためか(『権記』『日本紀略』 )、
とにかく漢詩文に通じる為時は「越前守」任官に変更されました
まひろもこの時、漢学の才を見込まれて為時に同行します(ドラマでは越前編が始まるとか…?)
そのあとオッサン宣孝と結婚するため、再び京都に戻るようです
一条天皇即位
↓即位する一条天皇(かわいい)
こんなかわいらしい一条天皇(当時7歳)ですが、
即位に際して、高御座に生首が置かれるという、忌まわしい出来事がありました
↓高御座
生首
花山天皇の読経を混ぜながらの生首描写は、印象操作っぽいわ
道長が生首をラッピングして、従者に鴨川に捨てさせました
同じ「死の穢れ」を扱ったものでも、前々回の鳥辺野で穴を掘るシーンとは違い、「生首事件」は歴史書に載る内容なので、ゾワゾワ度が高い
『大鏡』「昔物語」に生首事件が書かれています
「前の一条天皇のご即位の当日、その式典の場である大極殿を飾りつけするというので、人々が集まりましたところ、御殿の高御座の中に、髪の毛の生えた何かの頭で、血のべっとりついたのを見つけました。言語道断なことで、どうしたらよかろうかと、飾りつけの担当者が処置に困って、「こんな大変なことを隠しておけるものか」というので、大入道殿(兼家公)に、「こういうことがございます」と、何某殿に申し上げてもらったとおろ、兼家公は大変眠そうな…
「…こんな重大なご祝典が、いまさらその当日になって中止になるなどということは不吉な話で、あり得べからざることだから、そっと内々に済ますべき…」
なんとも気持ち悪い事件ですが、結局、即位式はそのまま行われたみたいですね
・詮子は国母になり、東宮は居貞親王へ
一条天皇の即位により、詮子は待ちに待った国母(天皇の母)になりました
系図
詮子さん、以前、夫である円融天皇にはヒドイ扱いを受けていましたが、我慢した甲斐がありましたね
伊周登場
中関白家道隆一家が父兼家と団らんする風景が描かれていました(仲間外れにされたミチカネ哀れ)
↓兼家と食事する中関白家と、たまたまやってきた道兼
道隆の息子伊周と、その隣で赤い服を着ている女の子が定子
この先、定子は入内し、定子に仕えた清少納言が「伊周がかっこいい」とギャーギャー騒ぐことになります
↓伊周
伊周は、道長と弓くらべをしたり、月夜の下で清少納言にキラキライケメンと騒がれたりしますが、実際に才能あふれる好青年だったようです
この後、道隆、伊周の中関白家はブイブイ繁栄期を迎えますが、
いろいろな事件が起こり、やがて没落していきます
『大鏡』には、伊周についてこんな記述があります
「この殿(伊周公)も、ご楽才がこの小さな日本には過ぎていらっしゃったので、かようなこともおありになった…」
若い盛りの伊周は、昇進を焦った末に自爆した感があります
『大鏡』の言うように、彼の才能が、小さな日本では発揮できないほどのものであったというなら、彼の生きた時代は早すぎたのかもしれませんね
今なら、SNSを駆使して、才能を最大限に開花させることができたかもしれませんね(知らんけど)
参考資料
山中裕『藤原道長』吉川弘文館
保坂弘司『大鏡 全現代語訳』講談社学術文庫
倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」(中)善現代語訳』講談社学術文庫
倉本一宏『藤原行成「権記」(下)』講談社学術文庫