令和についてテレビが沸騰している件と、万葉集なら大和国だと思ったりする件 | 奈良大好き主婦日記☕

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鎌倉在住
奈良や仏像が好きで子育て終了と共に学び直し大学院博士課程修了、研究員になりました。
テーマは平安後期仏教美術。

明日香村、山の辺の道等万葉集の故地が好きです。
ライブドアにも書いていました(はなこの仏像大好きブログ)http://naranouchi.blog.jp




むらさき音符はじめに
私は万葉集から引用した新元号「令和」が、
「万葉集からの引用」という点で、万葉集が好きなので、とても良いと思います



むらさき音符マイナスの評価
ところが、案の定というべきでしょうか、
この新元号令和について、今朝の民放では少しずつ「マイナスの評価」の意見が出てきています

例えば私が見た朝の番組では、
主に「令」の字についてのマイナスの評価が提示されていました
ざっと内容を言うと…
・「令」の字には「命令」のイメージがあること
・「巧言令色鮮なし仁」という論語のことば(朝番組で学者さん以外、いつも偉そうなコメンテーターも司会者も皆このことばを知らなかったことに驚いたよ…学校で習わなかったの?)の中での「令」の字のマイナスなイメージがあること

・「令」という字は、本来日本の歴史の中では「皇太子」が出す命令「令旨(りょうじ)」を連想させてるため、新天皇に関連する語としては違和感があること
「令旨」について→https://ja.m.wikipedia.org/wiki/令旨
※令旨といえば、「以仁王の令旨」が有名ですよね
(注、これに対して、天皇が出す命令は勅令天皇・太政官の命令を伝達する文書の形式名は宣旨)

さらに、
・国書からの引用とはいえ、万葉集の梅花の宴の歌は中国の「文選」を模倣して詠まれたものであること…そもそも日本の花は桜であって、梅は中国の花である(注、そこまで言うか…万葉集に多いんだからいいじゃん)
などなどといったマイナスの評価です


まあ、何事も、後からなんとでも言えるっちゃあ言えるってこともあるだろうし、
どの元号を採用してもそれに対しての議論は起こるんだろうなと思いますよ(江戸末期みたいな元号の候補が二つくらいありましたね…)



ピンク音符考案者についてのニュース
ところで、この元号の考案者については、こんなニュースが出ています
…なんと、私が高校生時代から憧れてきた
中西進先生だというのです↓



もう、私個人の意見としては、中西先生が考案者なら、なんでもいい!爆笑!!!!



むらさき音符太宰府の筑紫歌壇の歌だということ

万葉集の時代、大伴旅人を中心に太宰府に筑紫歌壇が形成されました
このことについて、太宰府市の文化財情報から説明を引用すると

「奈良時代の初めの 神亀(じんき) 年間から 天平(てんぴょう) 年間にかけての数年、大宰府には大宰帥 大伴旅人(おおとものたびと) 、少弐小野 老(おののおゆ) 、筑前国 守山上憶良(やまのうえのおくら) 、造観世音寺別当 沙弥満誓(しゃみまんせい) 、 娘子(おとめ) 児島、大伴 坂上郎女(さかのうえのいらつめ) などの人々が会し、「万葉集」に収められた数々の歌を残しました。 それを後の人が称して「 筑紫歌壇」と言いました。

筑紫で詠まれた歌は約320首、関係が深いと考えられる歌は、約57首あります。

筑紫万葉の代表的な歌は、帥大伴旅人邸で開かれた 梅花宴(ばいかのえん) 32首、亡くした妻を偲ぶ旅人の歌、貧窮問答歌などの憶良作の歌群、松浦川の歌群、志賀白水郎(あま) の歌、そして遣新羅使の筑紫での歌などです。」(引用終わり)   


とあります


で、今日のニュースの一場面で思ったことです
実際に、大伴旅人の開催した梅花の宴の場所と考えられるのは、太宰府にある坂本八幡宮なんだそうですが

そこの関係者のお話が朝のニュースで流れました

そのお話の中ではもちろん、「太宰府」での「大伴旅人主宰の梅花の宴」の話が出ましたが、

引っかかったのはその先の話です

それは
・太宰府は菅原道真を祀る神社である
・その菅原道真(の子孫)は平安時代以降の元号の決定に関わってきた
というお話です


ここ、話が混乱します!


なぜなら、大伴旅人は万葉集の時代、
すなわち奈良時代7世紀後半から8世紀前半の人です
彼の生没年は天智天皇四年(665)〜天平三年(731)です
大伴旅人↓



これに対し、菅原道真は平安時代、9世紀半ばから10世紀初頭の人です
生没年は、承和12年(845)〜延喜3年(903)
↓ご存知菅原道真公




私が何を言いたいかというと、

菅原道真は万葉集とは全然違う後の時代の人なのです

ですが、「太宰府」といえば、普通まず頭に浮かぶのは菅原道真公なんです


だから、令和の引用元となった、万葉集の太宰府での梅花の宴の話のついでに、
「大伴旅人時代には何にも関係のない菅原道真公の話」や、
「菅原氏の子孫が平安時代に『元号の制定』に関わったという話」までもが、
無意識に、あるいは意図的に加算されて、
「本来の令和のことばの由来」がスッキリ伝わらず、後世に道真公のイメージとごちゃごちゃにならないか?

…というのが、私が若干危惧したところです
(ま、どーでもいいかもしれないけどね〜)



むらさき音符大和国の歌
もともと万葉集は大和国で詠まれたの歌が圧倒的に多いのです
筑紫歌壇の梅花の宴の歌は、巻5に所収されています

昨日から「国書である」なんて、今さら改めて変なふうに強調されてしまった感じのする万葉集ですが、
万葉集から元号を引用するのならば、まずは一番多く歌が詠まれた大和国に関する歌、それも万葉集巻1または巻2から、「令和の次」の元号は是非とも引用したらいいのになぁ…な〜んて思ってみたりしています





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