平泉毛越寺の浄土式庭園 | 奈良大好き主婦日記☕

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鎌倉在住
子育て終了を機に大学院博士課程修了、研究員になりましたが、2025春、大学を離れました。
奈良ソムリエ検定1級、飛鳥藤原検定初級、鎌倉検定2級
「はなこの仏像大好きブログ」もどうぞ http://naranouchi.blog.jp 



東北の話に戻ります
前回の記事↓




今回は、毛越寺です



毛越寺は藤原二代基衡の建立(キモ秀ですよ、覚えてますか?)





お寺の入口には、往時の伽藍の復元図の看板が掲示されていましたが
この古そうな看板を一目見たとき、「どこかの崖崩れの絵」かと思いましたねー


では、まず、
南大門跡からはいりますね


空がどんよりしていますが、
「大泉が池」という前池です
静謐な景色です



ここから、池に沿って時計回りに回ります…
毛越寺の庭は「浄土式庭園」(前回の観自在王院と同じです)

ちなみに「浄土式庭園」とは、平安から鎌倉時代にかけてその頃流行りの浄土思想に基づいて造られた庭園で、
藤原道長の法成寺、頼通の平等院、浄瑠璃寺、円成寺、神奈川の称名寺、平泉の毛越寺、観自在王院、無量光院などなどがこれにあたります
詳しくは↓こちら



少し行くと、
「築山」の説明板…読んでみましょう 
この説明の中に、「枯山水の様」とありますが、
「枯山水」は室町時代の禅寺などにある「水のない」庭園なんじゃないの?
時代も形態も違う!と思いませんか?

…ところが上の説明板をよく読むと作庭記」に書かれた「枯山水の様」の実例と書いてあります

この「作庭記」というのは、平等院の発願者である藤原頼通の第三子・橘俊綱の書いた書物なのです

ということは平安時代後期には、すでに「枯山水」という言葉があり、この時代の浄土式庭園の構成要素を指しているんですね(この後、中世に枯山水の言葉の意味が変わっていったということなのかな)

ところで、橘俊綱は京都三条に「三条俊綱堂」というお堂を建て、それは「立派」な阿弥陀如来像を安置しました
この阿弥陀如来像は、鳥羽上皇御願の勝光明院(1136落慶)の阿弥陀如来像のお手本となったくらい立派なものだったのです
鳥羽勝光明院の阿弥陀如来像は、円派を代表する仏師賢円が制作を担当しましたが、ちょっとしたエピソードが残っていますので(以前にもどこかで書いたのですが)ご紹介しますね
実は賢円制作の阿弥陀如来像は、制作の途中段階で賢円の仏所から勝光明院の北にある院の建物に移動させられました
そこで、関係者や鳥羽上皇に見せたところ、責任者からこんな風に言われてしまいました
「まあ、雰囲気は優美だな」
「でも、鼻が短すぎるぞ!」
「それに頭はもっと下に向かせたほうがいいぞ!」
「おっと!衣の削り方もザツだな!」
(はなこ超訳)

賢円がこれを聞いて、激おこしたかガッカリしたか心情はわかりませんが、その阿弥陀如来像を言われたとおりに改良します(お客様は神様です)

賢円は改良にあたり、
三条俊綱堂の阿弥陀如来像を真似して、
胸を切り上体を傾けさせ、衣を削り直したのです

で、結局阿弥陀如来像はその出来栄えを褒められて、賢円は泣いて喜んだそうです(ヨカッタネ)

…と、ここで何がいいたかったかというと、
「三条俊綱堂は上皇の阿弥陀如来像のお手本になるくらい素晴らしい仏像を所有していた」ということ、そして、
その俊綱は作庭に関しても造詣が深く、「作庭記」は遠く奥州平泉にも多大な影響力があった」ということです

この「作庭記」は毛越寺庭園だけでなく、平泉にある無量光院(まだ記事を書いてませんが)にも影響を与えたようです
無量光院の伽藍は平等院を再現したことで有名です



話が長くなりましたが、
その「枯山水の築山」を巡り


いかにもそれらしい(平安時代っぽい?)小舟↓
百人一首の歌が思い浮かびそう…天の小舟の…とか?


開山堂
円仁を祀るそうです


おお!ほんとだ!
円仁さんがこっちを向いてる!




↓南大門跡から上に時計回りにまわって
開山堂は一番上の青い屋根の建物
http://www.motsuji.or.jp/keidai/

ここから、経楼跡に向かいます


経楼のあった場所は、礎石が露出していて
この上に柱が建てられ建物があったことが手に取るようにわかります


経楼の向こうは、砂利が敷かれた前庭の跡があります


鐘楼跡


経楼跡とまったく同じように礎石が並んでいると思われます




このあたり俯瞰図でみると、
経楼跡と鐘楼跡は、金堂円隆寺跡を真ん中にして左右対称の位置にあります


正面からみれば、こんな感じです
(✴︎ここから、✴︎印の写真は現地でQRコードで読み取った写真をお借りしています)
こんな形の建物、見たことありますよね?
そう、平等院鳳凰堂にそっくり!
京都と平泉、場所は離れているけれど、
やっぱり真似したんだね
藤原氏だもんね



金堂円隆寺跡   真ん中の建物です

↓こんなイメージらしい
✴︎

現地は、こんもりと高くなったところに礎石が残るだけ






ここに薬師如来が安置されていたそう
↓イメージ図
✴︎
その薬師如来像は運慶ならぬ、「雲慶」(誰?)が制作したと記録では伝えるようです


でね、
↓これ、見てください
礎石の跡が点々と見えます

金堂から池に向かいこのように礎石跡が残っているのです

この礎石跡をつないでいくと、翼廊の形が再現できるのです!



俯瞰図で見ると、の部分です
本堂から経楼につながる「翼廊」の跡です



じゃあ、反対側の翼廊はどうなってるの?と思いますよね

↓こうなっていました

こちらは、礎石跡はなくて、そのまま歩けるように整地されていました


だから上からみると、翼廊は片方が緑色、もう片方は地面の色なんですね



次は、金堂の背後にある講堂を見てみます
✴︎

こちらは大日如来を祀っていたらしい


↓こんな感じの講堂跡



次は、講堂のとなり
嘉祥寺跡も見てみます
✴︎
嘉祥寺の前身は円仁まで遡るそうで、金堂よりこちらが先に建てられていたということかと思われます

丈六の薬師如来が祀られていたそうです



再び、金堂跡を通りすぎ、伽藍の東側に行きます

こちら、曲水の宴の跡を再現したそうです


ほら!
✴︎


池には、竜頭鷁首が浮かぶ

平等院では、定朝が竜頭鷁首を作ったという記録がありますが、こんな感じなのかもね




隣のお堂に行く手前には
地蔵菩薩

この掲示に該当する地蔵菩薩は、↓こちらだったと思うのだけど…なんかモアイ像みたいなお顔ですね


こちらもお地蔵さん



そして、次は
常行堂です

享保年間に再建された建物らしいです
常行堂は常行三昧を行うお堂です
常行堂で有名なのは、比叡山延暦寺西塔にある担い堂です
比叡山西塔には、同じ形をした常行堂法華堂の二つのお堂があり担い堂と呼ばれますが、そのうち常行堂では密教尊の阿弥陀如来像(宝冠、通肩)を祀り、常行三昧が行われました(→比叡山2〜常行堂と阿弥陀仏 2015/11/24)



で、この毛越寺の常行堂をみると
阿弥陀如来像(宝冠、通肩なのが見える)

横から見てもなかなか凛々しいお顔です



お堂の裏手に回って気づいたことがありました
普通常行堂は、宝形造りで真四角の建物のはずなんですが、この常行堂は後ろの真ん中部分が出っ張っているのです
これ、常行堂って言っていいんでしょうか?

この常行堂では、国の重要無形民俗文化財「延年の舞」が奉納されているそうです
✴︎
✴︎




で、この常行堂の隣をみると
おお〜!

常行堂と法華堂!(の跡地)
(比叡山西塔とおんなじだった〜!)

先程見た現在の常行堂は江戸期の建物でしたが(理由はわからないけど真四角ではない建物)、

もともとは、こちらの場所に
方形(真四角)の常行堂と法華堂が仲良く並んでいたわけです

北側奥の方に、
常行堂跡

手前南側には
法華堂跡

拡大した部分地図で見ると↓下の空き地の場所に二つ並んでいました
✴︎  →北


以上、毛越寺は浄土式庭園を持つお寺でしたが、まとめるとこうなります

金堂   丈六薬師如来坐像(雲慶作)
経楼・鐘楼
講堂  大日如来像
常行堂 宝冠阿弥陀如来像
法華堂

嘉祥寺 丈六大日如来像
開山堂 円仁

浄土式庭園は平安時代後期の流行ですが、
金堂に薬師如来(顕教)、講堂に大日如来の密教尊というのは、京都の東寺のようですね

この辺、お堂の建て方に時代差があるんでしょうかね
東寺は、顕教(金堂薬師)→密教(講堂大日、密教尊)の順番に時代差をもってお堂が建てられましたが、
毛越寺は、もしかして、密教→浄土教の順番で、なのかな?(以下独り言)
でも、金堂薬師如来は密教尊か顕教かわからないし、
一番古い嘉祥寺は大日で密教、
常行堂は現在密教の阿弥陀(宝冠、通肩、多分朱色)なので、

浄土教の阿弥陀(螺髪で偏袒右肩)がどこにもいないぞ〜〜?

浄土教って、「庭」だけか〜??
…┐( ̄ヘ ̄)┌??





で、最後に庭園東端の通路を歩きましたが、
観自在王院の記事で書いたとおり、


ここが、隣の観自在王院へとつながる出口だったようで


背の高さが足りなくて直接あちら側は見えなかったのですが、手を伸ばして撮ってみたら、お隣の観自在王院の池のあたりが写りました

清衡の奥様のお住まいまで、すぐだったんですね…




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