前回からの続きです
最近、せわしなくて更新が飛び飛びなので、
お詫びに、奥州藤原氏三代「清衡基衡秀衡がヒラヒラヒラで区別がつかない方」に、今すぐ区別できる方法を伝授します
ズバリ!
「キモ秀」と覚えましょう!
「秀」は、「ヒデキ感激!」の「秀」でもよし(ご冥福をお祈りします)、秀吉の「秀」でもなんでもよいので、「キモい秀樹(秀吉)」をイメージするのです
私は、なんとなく「とんかつキモ秀」という架空のとんかつ屋を脳内設定してますが、
とにかく「キモ秀」というワードを覚えてしまえばこっちのものです
「奥州藤原氏三代」はキモ秀!
「キモ秀」のキは清衡のキ、「キモ秀」のモは基衡のモ、「キモ秀」の秀はヒデキ感激秀衡の「秀」…これでもう、バッチリですね👌
試験範囲だといいのだけど…(半分くらい本気で言ってます)
ここから昨日の続きです
仙台泊の翌朝は
6時44分仙台駅発、小牛田行きの東北本線に乗りました
特急料金節約のため、東北新幹線を使わずに、
仙台→小牛田→一ノ関→平泉 と進みます
これで行くと平泉駅に9時06分に到着です
平泉では、市内を巡回する観光バス「るんるんバス」が400円で乗り放題なので、これを使う予定です
このバスの平泉始発が9時45分なので充分間に合います(ていうか、30分以上待ち時間あるし…)
もし仙台一ノ関間で新幹線を使ったとしても、一ノ関駅からの東北線の本数がとても少ないので、結局は同じ電車で平泉に着くことになり、新幹線の特急料金を払う意味は全くありません
ということで、早朝から在来線の旅となりました
ポケモンGOのキャンペーンか何かですかね?
なーんとなく、近鉄飛鳥駅を思いだしました
循環観光バス「るんるんバス」発車まではあと30分以上待ち時間があります
駅のインフォメーションで聞くと、毛越寺と観自在王院跡までは駅から徒歩10分だそうです
道は簡単
バスを待たずに歩こくことにしました
↑なーんとなく、奈良の桜井駅周辺を思いだしました(なんで頭が奈良になってるんじゃ?)
まずは観自在王院跡を目指します
観自在王院跡
観自在王如来=阿弥陀如来を本尊とする御堂で、奥州藤原氏二代基衡の妻による建立です
(基衡の妻は、前九年の役で滅亡した安倍宗任の娘です)
伽藍配置は、現地の説明地図によればこう↓(見にくい)
発掘調査をもとに書かれた本によれば、こうなります↓
こちらは現地の説明板です↓
この観自在王院は、もともとは隣の毛越寺の一部分でした
このことについて観自在王院wikiにはこう書いてあります(一部抜粋)
↓
「境内跡は「毛越寺境内 附 鎮守社跡」(もうつうじけいだい つけたり ちんじゅしゃあと)の一部として国の特別史跡[2]、庭園は「旧観自在王院庭園」(きゅうかんじざいおういんていえん)として国の名勝に指定されている[3]。2011年(平成23年)6月26日、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された[4]。」https://ja.m.wikipedia.org/wiki/観自在王院跡
毛越寺と隣接したこの場所は、基衡の奥さんのプライベート空間であり、浄土式庭園が作られていたのでした
毛越寺と隣接している様子は下の伽藍配置図からもわかります
この赤い線の右側が観自在王院跡、左側が毛越寺です
このように、観自在王院跡と毛越寺の関係や伽藍配置図を頭に入れて歩くと、
「ただの原っぱ」にみえたこのエリアに浄土式庭園のイメージが立ち上がってきます
具体的に辿ってみます
まずは、
南門跡
池(舞鶴が池)があります
これは浄土式庭園を構成する池です
静謐さをたたえる池
手前が伝普賢堂跡の礎石で柵の向こうに見える小島が
誰もここまで足を伸ばさないので、この空間を独り占めしました!
池の南側から左回りに回ります
伝普賢堂跡
小阿弥陀堂跡
それから、字は読めなかったのですが、長細い石碑があり
脇からみると、快慶三尺阿弥陀みたいに前に傾いてる〜(それだけが言いたくて画像載せました)
小阿弥陀堂の向こうには大阿弥陀堂があるのですが、この2つの間には中間遺跡がありました
発掘風景
ここには石仏がいました ↓
肉髻あるし定印だし、観自在王院だし、
これは(頰かぶりしたドロボーじゃなくて)阿弥陀如来なんじゃないかな?
これは小阿弥陀堂跡
大阿弥陀堂、中間遺跡、小阿弥陀堂の模式図
そしてこれが
続いて
大阿弥陀堂跡
「基衡」の字が読み取れた↓
また、頰かぶりの石仏
石仏の脇には空っぽの蓮台がありました
あー、もしかして、この石仏は蓮台から落っこちてしまって、戻れないのかな?
あの木に石仏が寄っかかってるのです↓
京都から遠く離れたみちのくの地から、きらびやかな京都に憧れる気持ちの強さが伺われます
西門跡
西門前は西側唯一の門だったようで、建物の出入りに使われていたようです
このあたりからは宝珠の露盤も出土したようです
当初は、↓このような建物があったそうで、
「正和二年極月吉日大衆訴状」という文献によればこの建物の堂内の四壁には、京の都の霊地名所が図絵されていたそうです
その絵の内容は、
❶八幡の御放生会❷加茂の祭❸鞍馬❹醍醐の桜会❺宇治の平等院❻嵯峨❼清水
の七ヶ所の情景だったそう(今でも立派に観光コースとして成り立つ!)
京都から遠く離れたみちのくの地から、きらびやかな京都に憧れる気持ちの強さが伺われます
四脚門だったようです
車宿に使われた掘立柱↓が残りますが、これは当初のものなんでしょうかね?
道の左が観自在王院の土塁、右の緑が毛越寺(北から南を見ています)
平安時代、
土塁跡
毛越寺と接する西側には、土塁が築かれていたそうで、馬に乗った人から中が見える程度の高さだったようです今は石がゴロゴロ(歩けない!)
車宿跡
土塁の中ですが南の方に、車宿跡があります
車といっても車庫ではなく(まだ発明されてないもんね)、牛車の車庫(いかにも平安!)
まさに、この道を境界線として、2つが隣接していたことがよくわかる景色です
観光客のほとんどは毛越寺を目指し、観自在王院跡はスルーですが、どちらも平安の浄土式庭園の遺構です
こんもりとした観自在王院の方が往時を偲ぶには
いいかもしれませんよ(夏は蚊がいるかもしれないけどね)
おまけ
ご参考までに、まだ記事にしていないものの、↓毛越寺の内部、観自在王院に面した東側の写真です
平泉の地の藤原氏が京都に強い憧憬の念を持っていたことが、観自在王院の浄土式庭園の遺構を見ただけでもひしひしと身に迫って感じられたのでした
(なんか切ない)
参考図書
藤島亥治郎編『平泉 毛越寺と観自在王院の研究』1961
(発掘はこの後にも行われたようですが、入手できた資料はこれでした)