京都の遊郭跡〜旧五条楽園そぞろ歩き | 奈良大好き主婦日記☕

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鎌倉在住
奈良や仏像が好きで子育て終了と共に学び直し大学院博士課程修了、研究員になりました。
テーマは平安後期仏教美術。

明日香村、山の辺の道等万葉集の故地が好きです。
ライブドアにも書いていました(はなこの仏像大好きブログ)http://naranouchi.blog.jp




五条通りから南の高瀬川両岸には、遊郭の跡が続いていました…
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この一帯の遊郭は五条楽園と呼ばれていたそうです
2010年に一斉摘発されるまでは現役の遊郭として栄えていた(?)エリアのようです

周囲を京都の観光地に取り囲まれながら、一般的にはあまり振り返られることのないこの一帯の昔に思いを馳せてみました

京都という土地柄の印象が影響するのか、
今でも遊郭の雰囲気を残す街並みは、
なぜかとても魅力的で、かつ、物悲しいのでした



👒👒👒



私は京都市内では、「なるべく同じ通りは通らないで歩く」ように心がけています…何しろ京都市内は碁盤の目状の区画なのでわかりやすいし、どの通りも、特に細い通りほど、面白い展開が待っていることが多いので、実にキョロキョロしながら歩いてしまいます(o^^o)

ある日のことでした

五条大橋のあたりからふらふらと散策していると、そのあたりが少し変わった雰囲気ふんわり風船ハートの漂う街並みであることにきづいたのです


むむむ?この雰囲気はなんだろう?
とキョロキョロしてみたところ、どうやら
「遊郭跡」のような感じなのです


そこで、後日、検索してみたところ、


BINGO(*^-^)b


でございました…



このエリアは、つい最近まで遊郭として機能していた
五条楽園
というエリアだったです
(営業していたら、私など近づけないエリアだったと思うので、廃業していてよかったのかどうか…)



少し間が空きましたが、今朝、改めて探検してみました


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鴨川にかかる五条大橋と七条大橋の間に
正面橋という橋がありました


この橋です
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向こう側、豊国神社、京都国立博物館方面です
まちなかです

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由来がわかりませんが、橋の近くに梵鐘が置いてありました
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南無阿弥陀と書いてあります


正面橋の南と北、鴨川の西あたりが五条楽園のあった場所のようです

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wikiから一部引用します
↓↓↓
お茶屋と呼ばれる店舗があり、旅館のような構造をしている。京都花街組合連合会に加盟する花街におけるお茶屋と異なり、一部では性風俗も扱っていた。

もともとは五条橋下(五条新地)、六条新地、七条新地という隣接する複数の遊廓であったが、これらが大正時代に合併し、長らく七条新地の名で親しまれた。かつてより芸妓娼妓が混在する花街であり、戦後はいわゆる赤線となり、営業を続けていた。

1958年(昭和33年)の売春防止法施行後、五条楽園と名を変えた。当時はお茶屋84軒、置屋16軒、旅館15軒、バー・スタンド19軒で芸妓100人程度を擁していたという[1]

現状は、五条楽園歌舞練場を中心に、一般民家に混ざってお茶屋15軒、置屋4軒が残っている程度である[2]大正から昭和初期に建築された、独特な唐破風屋根が映える京町家も現存する。」



…で、私は遊郭の建築様式も何にも詳しくないですが、とにかく趣のあるこの一角の雰囲気をご覧ください



正面橋の近くからランダムに貼ります(どこをどう歩いたか、まるで迷路のようでよく思い出せません)
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建物の下がタイル張りとか、窓枠がちょっと洒落ているとか、こういう造りは「それ」らしいのです


ほら、こちらも赤いタイルとおしゃれな窓枠
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この建物は、威圧感があり、写真なんて撮ってよいのかどうか、ためらいました
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一階の窓の桟越しに遊女がいたのでしょうか?
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二階でお客さんをとっていたの?
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このあたりも、レンガとお洒落な窓枠
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こちらも…
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この家は、鉄平石だね
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旅館として営業されているようです
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ズラーっと並んだ街並み…通り抜けるのに少々の勇気が必要だったわ
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二階の窓の桟が素敵ですね
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この建物もそうかなぁ
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斜めの格子が美しい…イマドキの宿屋さんに改装でしょうか?
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このあたりも雰囲気ありますね
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大きな遊郭だったと思われる建物でした
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これはカフェ建築でしょうか?
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壁の飾り模様が遊郭らしいですね…二階の窓枠のデザインも凝ってます
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カフェ建築?
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このエリア、すぐ背後には大きなマンションがあったりします
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現役のお風呂屋さん…朝風呂もやってるみたいね
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こちらもカフェ建築
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この建物は一番目を引きました
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市松模様の斜めのタイル張りの壁面に、潜水艦を思わせるような丸窓…趣味が良いのか悪いのか、よくわかりません
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私はこういう和風のほうがいいかな?(働かないけど)
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現役の置屋さんでしょうか?
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こちらも、鉄平石が粋だなぁ
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またお風呂屋さん
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お風呂屋さんの外壁の下の部分も鉄平石…ここ営業してるのかな?





そして、五条通りに近いあたりには、
家の壁に張り付いた鳥居があり、
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鳥居の意味はわかりませんが、

このあたり、もっと昔の平安時代には
河原院と呼ばれる邸宅があったようです
↓河原院の説明板
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河原院に隠棲していたのは、
光源氏のモデルともなった平安時代のイケメン貴族
源融(みなもととおる)

説明板右半分を拡大してみると↓
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イケメン貴族源融は、ここと、宇治平等院の近くに、別荘を持っていたそうです



では、源融がどんなイケメンだったのかといえば(脱線してないかい?)

↓嵯峨清涼寺阿弥陀如来像
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このイケメン阿弥陀のモデルがイケメン貴族源融だったのです
みなさん、この嵯峨清涼寺の阿弥陀如来像も
しみじみとしたイケメンですから、公開期間には是非お会いになってくださいね



説明板の左半分↓
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イケメンの邸宅内には鴨川の水をひき、楼閣などもつくっていたそうで、いかにも平安好みの雅なお宅だったということでしょう



この鴨川から引いた高瀬川は、五条楽園の中を流れています
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高瀬川は、もっと後の秀吉の時代あたりに引かれたそうです
wikiより
↓↓
高瀬川(たかせがわ)は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である[1]。 開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。名称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる[2]


高瀬川の水の流れは清潔で、紅葉しかけの葉がきれいでした
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この場所に、
平安時代には源融が「この世の浄土」のような景観を作り、
その後いつの頃からか遊郭が立ち並び、違った意味ですが、再び「この世の浄土のような景観」となった、ということでしょうか?




高瀬川にかかる細い橋はいかにも頼りなく、
遊女たちにとっては、この橋を渡ってもどこにも浄土の景観なんてなく、逃げることのできない「五条楽園」の敷地の中だったのです
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森鴎外の小説『高瀬川』の暗い内容の印象も思い起こされ、
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京都って奥深いと、改めて思うのでした



ハットひそかに追記
後日、京都在住の人や、京都通の人に、この五条楽園のことについて、あれこれお聞きしました

私のような、京都に詳しくない人がフラフラするような場所ではなさそうでした

あの独特の空気感は、そんな意味だったのか…と腑に落ちた次第です

現在は特に身の危険は感じませんでしたが、
京都も奈良も、千年を超える歴史のある土地柄、
やはり他所者、とくに関東人は、よく回りをみて、観光マップに書かれていない場所には注意を払って行ったほうが良さそうです






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