平等院を手本とせよ 3 〜 阿弥陀仏は手本とされなかった | 奈良大好き主婦日記☕

奈良大好き主婦日記☕

鎌倉在住
奈良や仏像が好きで子育て終了と共に学び直し大学院博士課程修了、研究員になりました。
テーマは平安後期仏教美術。

明日香村、山の辺の道等万葉集の故地が好きです。
ライブドアにも書いていました(はなこの仏像大好きブログ)http://naranouchi.blog.jp



続きです


今までの内容を整理しながら、話を進めていきます

①鳥羽勝光明院は、落慶法要の記事にあるように、平等院とよく似ているお堂になりました
当時からすでに、「平等院をお手本とした」という認識が一般的だったとおもわれます

②このことは、資料からも ある程度裏付けすることができます
つまり、勝光明院の御願者である鳥羽上皇は、造立に先立つ申し合わせの中で、「長押上の供養菩薩は平等院を手本としなさい」と指示したという記事が『長秋記』に残リます
これは、平等院の雲中供養菩薩を真似して、勝光明院にも菩薩像を飛ばしなさいという内容だという考えられます

③上皇からの指示をうけ、責任者とスタッフは平等院に赴き、詳しく細部の調査観察を行なっています
ここにいう細部には、建物の天蓋とか虹梁とか、屋根の上の鳳凰なども含まれます
そして、このスタッフの中には、勝光明院の造仏担当である円派仏師賢円も含まれていました

④この調査結果と、予め用意されていた下絵に相違があった場合には下絵の書き直しをさせています(天蓋についての書き直しの記録が残ります)

⑤別の日、上皇と責任者は院派仏師とともに平等院に行幸しています
平等院の本堂ではたくさんあった定朝仏ではなく、たった一体の高成作の不動明王が注目された記録が残ります
鳳凰堂でも、定朝作のあの阿弥陀如来像についてはなんの記録も残らず、天蓋などの装飾品についての記事が詳しく残っています

⑥これらのことから、勝光明院は平等院を手本とすることをかなり意識して建てられたお堂だと思われます
しかしながら、当時造仏の手本であったはずの
定朝作の阿弥陀如来像についてはなんの記録もないことからみて、
平等院の阿弥陀如来像はお手本として意識されていなかったということが考えられます


別の日、責任者と院派仏師は、今度は
西院邦恒朝臣堂に行き、そこにある阿弥陀如来像をそれはそれは詳しく採寸しています
この阿弥陀如来像は、定朝作であり、天下是を以って「仏の本様」となすとか「尊様、満月の如し」などと大絶賛される、まさに手本としてぴったりの阿弥陀如来像だったようです


一方、円派仏師賢円は自分の工房で造仏の仕事をしていました

ある日、責任者が出来上がりかけの勝光明院阿弥陀如来像を見に来ました
「通有の形式で造られている。良くも悪くもない」と評価されています

この阿弥陀如来像は勝光明院の近くの仏所に移されて、今度は鳥羽上皇が見に来ます
そこで責任者が今度はこのように言います
「出来栄えは、優です。ただし、お顔をかなりうつむかせたほうがよいでしょう。衣もまだ粗いので、削って滑らかにしたほうがよいでしょう」
ここで、左金吾という役人が付け加えます
「鼻が短少です」

左金吾のこの発言に対し、責任者が反論します
「西院邦恒朝臣堂の阿弥陀如来像も鼻が短い」

つまり、賢円が制作していた阿弥陀如来像は、
鼻に関しては少なくとも西院邦恒朝臣堂の仏の本様の阿弥陀如来像に似せて造られていたのですが、左金吾はそれを欠点であると指摘したことになります

これに対し上皇は、「直すべきところは直しなさい」と指示をします

…ここまでが、補足しながらですが、前回までの内容です(長くなった…)




平安時代後期の造仏は、発注主の言うことが絶対でした…なにしろ、スポンサーですから(今のテレビと変わらないわ)
だから、円派仏師賢円がいかに優れた腕と作風を持っていようが、発注主が「こうしろ」と指示をしたのなら、それに従うしかないのです
そこで、賢円は完成間近の阿弥陀如来像の胸を切り顔をかなりうつむかせて、衣を一寸五分削り直しました

そして、こう言ったのです
「この阿弥陀如来像は、(平等院ではなく、西院邦恒朝臣堂でもない)三条俊綱朝臣堂の阿弥陀仏の体裁を手本として造りました(^O^)/」

なんですと?

唐突に、藪から棒に、三条俊綱朝臣堂という名前が出てきました!
いきなり、どうしたんでしょう?

…ここで補足すると、三条俊綱朝臣堂については、これより前に、台座については、三条俊綱朝臣堂のものを手本とすることが責任者により決められています
ということは、台座も本体も三条俊綱朝臣堂を手本にしたということになっちゃいますね(°д°;)
いいんですか、これ?



とにかく、一旦ここまでのことをまとめます
ひらめき電球鳥羽上皇御願の勝光明院は、平等院を手本として造られた
が、(肝心の)
ひらめき電球阿弥陀如来像については、平等院の定朝仏ではなく、(仏の本様とされ採寸まで行った)西院邦恒朝臣堂の定朝仏でもない、三条俊綱朝臣堂の阿弥陀仏を手本として制作された

なななんとも、斜め上の結論だと思いませんか?


風船この話を賢円の立場から考えるとこのようになるのではないでしょうか?
それは…
ブー勝光明院の造仏を一切任されて張り切って平等院までスタッフとして行ったのに、上皇は平等院行幸の際には(円派の自分ではなく)院派の仏師を連れて行った(コノヤロー)

ブー「仏の本様」の西院邦恒朝臣堂には、責任者はトーゼン自分を連れて行ってくれると思っていたのに、またもや院派仏師を連れていき、詳しく採寸なんかしやがって(コノヤロー)

ブー自分は健気に真面目に造仏してるのに、やれ顔をもっと傾けろとか、やれ衣を削れとか(「今やろうと思ってたんだよ!」)、挙げ句に鼻が短いとか…はぁ?鼻が短いのは(連れて行ってもらえなかったケド)西院邦恒朝臣堂の鼻に似せてんだよ!(コノヤロー)

…と、コノヤローが積み重なり、

もういい!オレは三条俊綱朝臣堂の阿弥陀仏を手本にしてやる!
となったんじゃないでしょうか?


つまり、鳥羽勝光明院は平等院を手本として造られた
しかし、主役の阿弥陀如来像だけは、(唐突に)三条俊綱朝臣堂を手本として造られた
それは、円派仏師賢円のオトコの意地である!
ということになります(かね?)

ただし、阿弥陀如来像について、何故初めから平等院を意識した記録が見つからないのか、ちょっと引っかかりますね…


ということで、この話はおしまいにします

内容について、責任持ちませんので、くれぐれも参考になさらないように😜




人気ブログランキングへ