前回からの続きです
前回は、鳥羽離宮にあった鳥羽上皇御願の勝光明院の造立について、
1.建てると決まった時に、鳥羽上皇が
「長押の上の小さな仏たちは平等院を手本にしなさい」と指示し、
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2.それを踏まえて、責任者(源師時)とスタッフ(造仏担当の仏師賢円もメンバーの1人)が平等院に見学に行った
↓
3.平等院全体を見て来たのちに建設を行なった
↓
4.落慶法要の時には、貴族たちも、平等院にそっくりと記録している
という話の流れの中で、これはもう、仏師賢円も平等院に見に行ってるんだし、定朝の阿弥陀如来像は「定朝様」と呼ばれてずっと手本になったんだから、
当然勝光明院の阿弥陀如来像も平等院を手本としたのだろう!
と考えられていた…
なのに、賢円さん、平等院スルーしちゃって、別のものを手本としたのか疑惑浮上!
というお話でした
これは、平等院の阿弥陀さんからしたら、
「ボクが主役の平等院にみんなで来て、あれこれ詳しく見ていたのに、主役のボクだけ無視するなんて!ヒドイ!ボクって、こんなに金ピカだし、穏やかな優しそうな顔してるし、みんなが定朝様とかいってくれてるし、お手本にもってこいじゃないの〜〜?」
と、プライドズタズタ、号泣、地団駄踏んで大暴れものだったと思います…(言い過ぎ)
「ひ、ひどい…」
これ、私もとても不思議だと思うのですが、
『長秋記』をいくら読んで見ても、平等院の阿弥陀のことが出てこないのです。
しかし、平等院全体は手本されているようで、詳しいことは省きますが、雲中供養菩薩に相当するような「長押上の菩薩」や、天蓋などの堂内荘厳については、下絵すら用意されて、平等院の実物と違うと書き直したりしているようなのです
でも、阿弥陀如来像だけは完璧スルー
(彼、なにか悪いことでもしたんでしょうか?)
なぜ、平等院阿弥陀が参考にされなかったのか、理由はわかりませんが、とにかく賢円は阿弥陀仏の制作は(そこそこ)キチンと自分の工房で進めています
…その間に、鳥羽上皇は、責任者と院派仏師院覚と一緒に平等院を見にに行ったりしてるんですが、
円派仏師賢円はそんなことたぶん知らずに仕事してます…ちょっとかわいそうです(上皇もなぜ、賢円でなく、院派を連れていったんでしょう?)
…一方、賢円も、責任者たちが仕事の進捗状況を知らせなさいと言ってきたときにサボってスルーして、責任者が怒ってしまったので、上皇に直接作品を見せに行って責任者をカンカンにしたこともあり、彼自身少し問題児だったかもしれません…
とにかく、賢円は自分の工房で阿弥陀仏を造っていました
ある日、責任者が完成間近の阿弥陀仏を見にきました
責任者「まあ、普通の形式でつくっとるな…」
と、問題なしという判断をして帰ります
その後、阿弥陀仏は建築中の勝光明院の近くに作られた工房に移動し、2メートルほどの台の上に仮置きされます
上皇が責任者と一緒に見にきました
上皇「どうじゃ?」
責任者「なかなか美しいと思います…
ただ、お顔はもう少し下にうつむかせたほうが
よろしいかと。
それから、衣はまだ表面が粗いのでもう少し仕上げを滑らかにしたほうがよろしいかと…」
すると、ここで、もう1人の役人(左金吾)が口を挟みます
「鼻が小さすぎます」
これに対しては、責任者が賢円の味方をします
「西院邦恒朝臣堂の(定朝作)阿弥陀仏も鼻が小さいですよ」
この西院邦恒朝臣堂の定朝仏とは、
「仏の本様」とか「尊容満月のごとし」と世の中に絶賛されていた阿弥陀仏なのです(現存しないのが残念)
つまり、鼻が小さいというのは、当時の流行を取り入れた結果で、左金吾が流行遅れのオッサンだったにすぎないんということでしょう
しかし、ここでは、賢円に対して、
仏は吉仏であること、なので、
顔をうつむかせること、衣をきれいに仕上げること、そして、鼻も直すべきならそうすることと、
修正することが指示されてしまうのです
さて、賢円は、この指示に従って、ステキな定朝様阿弥陀をどのように仕上げたでしょうか?
どうやら、平等院を参考にしなかっただけでなく、
仏の本様といわれた、西院邦恒朝臣堂の阿弥陀仏も参考にしなかったようですよ
賢円、反抗期か!?
続きは次回(数日忙しいので、すぐに書けないかも)
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