文部科学省大臣補佐官の鈴木寛さんのインタビュー記事がEDUPEDIOAに載りました。


(政治的なことはちょっと置いておいて)

私と生徒たちが取り組んできたOECD東北スクールやその後継プロジェクトの位置付けにも触れられています。

それから、復興支援や部活動など、「大学に合格するために効率的に勉強する姿勢とそうするマインドセット」とは対照的なマインドセットが大学入試改革の根底にあることも紹介されています。

私は復興支援でこうしたマインドセットを生徒のみなさんが持っていることに心を打たれて、素直に「この子らは凄いなぁ!」と思えるようになりました。
そのことは、(ほんの少しではありますが)普段の授業やその他の活動で生徒のみなさんの活動を見て取る態度や活動のデザインにも影響を与えています。

「重箱の隅をつつく問題を解けることで他の受験生との差をつけて合格する」ことを目的とした(意識的であれ無意識的であれ)学習活動デザインは私も一生懸命作ったことがあります。院生時代に塾・予備校の講師をしましたし、高校でそれを目的とした演習の授業を担当していましたし。

その学習活動は、工夫すればするほど「授業者が活躍し、受験のための知識と工夫で生徒の尊敬を得る」ものとなると私は実感しています。具体的には授業が終わった後に授業者が心地よい充実感と疲労感を覚えるような授業です。

そこには学習者というオーディエンスとの心地よい一体感のようなものもありますし、授業の道程を振り返っての省察もあります。

しかし、その授業は登場人物が一人しかいないまずい芝居のような、ストーリー展開が一本調子で平板なものにしかなりません。そのストーリーの中では、授業者のデザインを逸脱するような振る舞いをする登場人物(生徒)の振る舞いは期待されていません。もちろん、観客(生徒)は意識されていますが、それは観客としてであり、ストーリーを共に紡ぐものではありません。

「重箱の隅をつつく問題で差をつける」ことが目的化しているので、できるだけたくさんの知識を得ることといかに間違わずに素早く問いを解くテクニックを身につけさせること、が何よりも重視されます。そのためには、授業時間内で授業者が説明し倒さなければいけなくなりますし、授業時間内外で一人で問題を解き続けることが必要となります。

だから、復興支援や部活動などに一生懸命取り組むのは「効率的」ではないというマインドセットが作られます。浪人生でそういった活動をしている人をあまりみかけないのはそのためです。

でも、そのような重箱の隅をつつくこと(職人芸や生き字引レベルではない)や、時間内にミスなく定められた手順で作業することは、これから求められる力、生徒のみなさんがしなやかによりよく生きていく力の中核にはなり得ません。

そういったことを改めて考えさせられた記事です。以下は記事からの一部引用です。

>もう一つは、マインドセットの変化です。学校の中に、社会の中で学び続け、豊かな人生をおくるための力を意識し教育活動をしている先生は必ずいます。しかし、そうした先生は少数派であり、非難する保護者や教育委員会ないしは議員もいます。そういう先生を守れている校長・教頭と、守りきれずに流されている方もいるのです。例えば、学校行事や部活を制限させてまで、東大に入れろという考え方があります。それでは、豊かな学校生活を全うできません。当たり前なのに、それが分からない人が多くいます。
東日本大震災の復興支援活動

震災直後から生徒たちといっしょにいくつかの支援?活動に取り組んできました。

もっとも大きかったのは、「OECD東北スクール」という、被災各地の中高生約100名といっしょに、2012年の3月から2014年の8月末にパリで復興をアピール?するイベントを開催するために資金集めや企画や実施まで「こどもたち自らの手でおこなう」プロジェクトベーズドラーニングです。

最終的に、パリのエッフェル塔のシャンドマルス広場でのべ15万人の来場を得たイベントとなりました。本校の生徒たちももちろん参加しましたが、立場は「エンパワーメントパートナー」、支援者でした。

 パリでパリ市長やOECD教育局長シュライヒャー氏に説明をする生徒

そのほかにも、いくつかの復興支援と呼ばれる活動に取り組んできましたが、どの活動でも、生徒たちも私も常に意識してきた、というよりは意識せざるを得なかったのは、「支援ってなんだろう?」「わたしたちの考えていることや、しようとしていることって、意味があるのか?」、「やってはみたけど、ほんとうに役に立ったのか?」というような、「自らへの鋭い問い」が、自分自身からも仲間たちからもつねに突きつけられているということです。


 女川の高校生と地元菓子店がコラボしてつくった復興大福の販売や、ともしびを灯して被災地への思いをいたす「ともしびプロジェクト」に取り組む生徒たち


 この「問い」には、答えはありません。批判もされることがありますし、褒められることもあります。でもいろんな人たちがいろんな立場や思いや価値観からの評価であり、「唯一の正解」はありません。
 それでも考えながら、こころを動かしながら取り組むことが、「わたしという人間」を成長させ、変化させ、再評価させ、新たなステージへと導き、などなどの意義があると考えています。

 わたしは、この活動で、こころから生徒の皆さんを含む年若い人たちをリスペクトできるようになりました。みんな、自分の時間やお金や心やなんやらを費やして、いえ、費やすという意識もなく取り組んでいます。当然、見返りを求めることもないですし、そもそも「見返り」という発想がありません。それどころか、「自分たちの考えややろうとしていることって、意味あるのかなぁ?とか、迷惑じゃないだろうか?」とかまで考えている訳です。
 人間って、ここまで他者の役に立とうとできるのかと心打たれます。

 それは、生徒たちが復興支援活動で一般のみなさまに支援を呼び掛ける場面でも強く感じます。昨日は、学校のオープンスクールで、「被災地へ募金をしてくださったら福島県産のきゅうり2本差し上げますキャンペーン」をしました。たくさんの小学生や保護者のみなさま、生徒たちが募金をしてくれました。何円でも良いのです。でも、過分な募金をしてくださいました。中にはお札まで!




ほんとうに、心打たれます。だからこそ、やってこれているのかもしれません。しかし、それだけではないとも思っています。

 わたしは、個人としてというよりは、教師としてこの活動を意味づけています。
 それは、上記のように、「正解のない課題に取り組むこと」や「自らのありかたに鋭い問いを突きつけること」、「他者のたちばや思いを忖度すること」が、若い人たちが近未来、生きていくときにおおきな力となると確信しているからです。

 その観点からは、近年の「ゆとり教育」も「21世紀型スキル」も、「ディープ・アクティブラーニング」も至極当然のことを論じていると思います。
今話題のアクティブラーニング。
Facebookにアクティブラーニングについての興味深い疑問が載せられていました。その疑問にさまざまなすんごい人たちが答えようとしています。これも面白い!(SNSがなかった頃にはけっして起こらないことでした。こうした協同がおおきな成果を生み出しています)。


■アクティブラーニングって今盛んに言っているけれど、
 工夫を凝らして生徒を動かす授業は
 昔からやってきたことではないか。

■双方向の授業という理想論もけっこうだか
 大体そういう授業は教室の秩序が乱れて失敗する。

■グループワークに馴染めない生徒が
 いる場合どうするのか。

■そもそも、意欲や関心を評価するのは可能なのか。
 それは傲慢な考えではないか。

■ペア学習やグループ学習をやっていれば
 教科書が終われない。授業が遅れるのではないか。

■アクティブラーニングだろうが、
 一方的な授業であろうが、
 要は学力がつけばいいのではないか。

■アクティブラーニングでは
 大学入試に耐えうる学力が身につかない。

■ベネッセの「大学生の学習・生活実態調査」を見ると
 「学生の自主性に任せる」より
 「大学の教員が指導・支援する方がよい」が
  15.3%(2008)から30.0%(2012)に増大。
 大学では生徒に受け入れられていないのではないか。

■アクティブだけど気が散りやすい騒がしい教室より、
 熟練の教員に指導を受けアイディアを
 展開してもらいながら、
 自分で静かに思慮にふけることのできる
 環境の方が学びやすいという人もいる。
 (参考 ディープアクティブラーニング/松下佳代)

■アクティブラーニングにおいても、
 講義形式の授業で見られた
 「学生の学びの質の格差」という課題は
 解決しておらず、一方で、フリーライダーの出現や、
 グループワークの非活性化、
 思考と活動に乖離のあるアクティブラーニングの
 状況が見られている。  
 (参考 ディープアクティブラーニング/松下佳代)


■現在の学校現場の体質から見ると、
 学習指導要領で規定することで、
 「主体的に学ぶことを叩きこむ」などといった、
 画一的にアクティブラーニングが進められ、
 教育現場の自立性・創造性が
 減殺される危険性がある。
 (参考 文部科学省コメント)


ちょうど自分自身、ディープ・アクティブラーニングについての研究計画を作成中ですので、自分なりの回答を試みてみます。私の立ち位置は、「学習活動の主役は教師ではなく生徒」であることと、松下佳代さんの『ディープ・アクティブラーニング』で溝上さんがご紹介の、「活動の〈動詞から見る〉学習への深いアプローチと浅いアプローチの特徴」にあるような「深いアプローチ」が学習活動でおきなければ(起こすように活動をデザインしなければ)いけないというものです。
「浅いアプローチ→深いアプローチ」
 記憶する→名前をあげる・認める→文章を理解する→言い換える→記述する(ここまでが浅いアプローチ)→中心となる考えを理解する→関連付ける→論じる→説明する→身近な問題に適用する→原理と関連付ける→仮説を立てる→離れた問題に適用する→振り返る」




■アクティブラーニングって今盛んに言っているけれど、工夫を凝らして生徒を動かす授業は
 昔からやってきたことではないか。
>その通り。すぐれた実践は多い。日本の教師は優秀です。問題は「はいまわる経験主義」のようになっていないかということです。上記の「深いアプローチ」を意識的に生徒におこなわせているかが重要だと思います。意識的も大切です。そうでなければその学習活動は「デザインされていない」ということ、すなわち目的と手段・方法が考えられていないということになります。欲を言えば、私としては「深いアプローチ」をしている私、また教師は何を目的としてどう授業をデザインしているか把握する私、といったメタ認知を生徒にしてもらえるようデザインしたいです。


■双方向の授業という理想論もけっこうだか大体そういう授業は教室の秩序が乱れて失敗する。
>「秩序」とはどんな状態で何のために必要なのかが不分明ですが、授業の目的と手段・方法をきちんと立てられていてそれを生徒が理解していればそうはならないでしょうし、双方向の活動で授業がめちゃくちゃになるようなら、その教師の知識技能伝達型の一斉講義の授業では生徒はただ思考停止しているのではないかと思われます。


■グループワークに馴染めない生徒がいる場合どうするのか。
>わたしがそうですし、グループワークでご苦労されている先生方がいらっしゃることもよく知っています。その上でですが、なぜグループワークになじめないのか生徒理解が必要ですね。それは個に応じた支援のためにも必要不可欠です。生徒理解のよい機会でもあるととらえられるのではないでしょうか。そうすることでその生徒へのかかわり方や支援に仕方もみえてくるでしょう。グループワークありきみたいな話になっていますが、生徒の皆さんの将来を展望したときに、仕事や社会においてグループワークなしで済ませることはできません。失敗が許容される生徒のうちにいろいろと経験してもらうとよいと思います。ただ、同調圧力のようなものには注意が必要です。それは個を圧殺するからです。個が生きるために、グループにどうしたら貢献できるのか生徒ともに考える態度が必要ですね。


■そもそも、意欲や関心を評価するのは可能なのか。それは傲慢な考えではないか。
>意欲や関心を評価する必要はありません。上記の「深いアプローチ」が生じているかどうか、グループに貢献できているかどうかが評価ポイントです。じつはその評価は意欲や関心の評価と表裏一体です。意欲や関心がなければ深いアプローチなど起きようもありませんし、質も左右します。ということは、この「評価」とは授業者の授業デザイン力やファシリテーション能力、授業運営能力などへの評価に他なりません。授業者が評価されているのです。そこから授業者のリフレクションが生じて授業力を上げます。いいことですね。


■ペア学習やグループ学習をやっていれば教科書が終われない。授業が遅れるのではないか。
>たしかに協同型の学習は時間がかかります。ただ、深いアプローチやメタ認知の中には、知識伝達型の一斉授業では起きないものがあります。それらを起きさせるために協同型の学習などのアクティブラーニングが必要不可欠です。では、どうするのか?反転学習やプリント学習、クラウドの利用など時間を有効に使う工夫が必要です。たいへんですが、生徒の活動や成長が目に見えるようになりますよ。それは大きな喜びですよね。


■アクティブラーニングだろうが、一方的な授業であろうが、要は学力がつけばいいのではないか。
>どんな学力なのでしょうか?上記の深いアプローチやメタ認知の中には、知識伝達型の一斉授業では起きないものがあります。


■アクティブラーニングでは大学入試に耐えうる学力が身につかない。
>京都大学の方が、「受験で燃え尽きる学生や伸びしろのない学生が一番困る。こちらも本人も」とおっしゃっています。東京大学の先生の中には、「同じ学校出身の学生が増えてきて同質性が高まるのは創造的な教育や研究にはデメリットだ」とおっしゃる方もいらっしゃいます。そうした方々が見ているのは受験学力ではない「力」のようです。また、これは私の実体験ですが、受験のための演習に明け暮れる高校では、受験が終わった瞬間に生徒が「学ばなくなる」傾向がよく見られます。具体的にはまったく授業を聞かなくなります。受験のための授業なのだからあたり前ですが、先生方は憤っていました。なんか変です。それでよいのでしょうか?


■ベネッセの「大学生の学習・生活実態調査」を見ると「学生の自主性に任せる」より「大学の教員が指導・支援する方がよい」が15.3%(2008)から30.0%(2012)に増大。大学では生徒に受け入れられていないのではないか。
>全入時代にあって、大学教員が指導・支援しなくてもよい学生さんってほんの一握りではないですか?


■アクティブだけど気が散りやすい騒がしい教室より、熟練の教員に指導を受けアイディアを
 展開してもらいながら、自分で静かに思慮にふけることのできる環境の方が学びやすいという人もいる。(参考 ディープアクティブラーニング/松下佳代)
>熟練の教員の授業はすごいですよね。しかし深いアプローチやメタ認知の中には、知識伝達型の一斉授業では起きないものがあります。


■アクティブラーニングにおいても、講義形式の授業で見られた「学生の学びの質の格差」という課題は解決しておらず、一方で、フリーライダーの出現や、グループワークの非活性化、思考と活動に乖離のあるアクティブラーニングの状況が見られている。(参考 ディープアクティブラーニング/松下佳代)
>新たな学習方法には新たな授業力が必要になります。知識伝達型の一斉授業の達人の授業では講義形式の授業で見られた「学生の学びの質の格差」という課題は起きないのと同じです。



■現在の学校現場の体質から見ると、学習指導要領で規定することで、「主体的に学ぶことを叩きこむ」などといった、画一的にアクティブラーニングが進められ、教育現場の自立性・創造性が減殺される危険性がある。(参考 文部科学省コメント)
>現場の教員をなめてはいけません(笑)