今話題のアクティブラーニング。
Facebookにアクティブラーニングについての興味深い疑問が載せられていました。その疑問にさまざまなすんごい人たちが答えようとしています。これも面白い!(SNSがなかった頃にはけっして起こらないことでした。こうした協同がおおきな成果を生み出しています)。


■アクティブラーニングって今盛んに言っているけれど、
 工夫を凝らして生徒を動かす授業は
 昔からやってきたことではないか。

■双方向の授業という理想論もけっこうだか
 大体そういう授業は教室の秩序が乱れて失敗する。

■グループワークに馴染めない生徒が
 いる場合どうするのか。

■そもそも、意欲や関心を評価するのは可能なのか。
 それは傲慢な考えではないか。

■ペア学習やグループ学習をやっていれば
 教科書が終われない。授業が遅れるのではないか。

■アクティブラーニングだろうが、
 一方的な授業であろうが、
 要は学力がつけばいいのではないか。

■アクティブラーニングでは
 大学入試に耐えうる学力が身につかない。

■ベネッセの「大学生の学習・生活実態調査」を見ると
 「学生の自主性に任せる」より
 「大学の教員が指導・支援する方がよい」が
  15.3%(2008)から30.0%(2012)に増大。
 大学では生徒に受け入れられていないのではないか。

■アクティブだけど気が散りやすい騒がしい教室より、
 熟練の教員に指導を受けアイディアを
 展開してもらいながら、
 自分で静かに思慮にふけることのできる
 環境の方が学びやすいという人もいる。
 (参考 ディープアクティブラーニング/松下佳代)

■アクティブラーニングにおいても、
 講義形式の授業で見られた
 「学生の学びの質の格差」という課題は
 解決しておらず、一方で、フリーライダーの出現や、
 グループワークの非活性化、
 思考と活動に乖離のあるアクティブラーニングの
 状況が見られている。  
 (参考 ディープアクティブラーニング/松下佳代)


■現在の学校現場の体質から見ると、
 学習指導要領で規定することで、
 「主体的に学ぶことを叩きこむ」などといった、
 画一的にアクティブラーニングが進められ、
 教育現場の自立性・創造性が
 減殺される危険性がある。
 (参考 文部科学省コメント)


ちょうど自分自身、ディープ・アクティブラーニングについての研究計画を作成中ですので、自分なりの回答を試みてみます。私の立ち位置は、「学習活動の主役は教師ではなく生徒」であることと、松下佳代さんの『ディープ・アクティブラーニング』で溝上さんがご紹介の、「活動の〈動詞から見る〉学習への深いアプローチと浅いアプローチの特徴」にあるような「深いアプローチ」が学習活動でおきなければ(起こすように活動をデザインしなければ)いけないというものです。
「浅いアプローチ→深いアプローチ」
 記憶する→名前をあげる・認める→文章を理解する→言い換える→記述する(ここまでが浅いアプローチ)→中心となる考えを理解する→関連付ける→論じる→説明する→身近な問題に適用する→原理と関連付ける→仮説を立てる→離れた問題に適用する→振り返る」




■アクティブラーニングって今盛んに言っているけれど、工夫を凝らして生徒を動かす授業は
 昔からやってきたことではないか。
>その通り。すぐれた実践は多い。日本の教師は優秀です。問題は「はいまわる経験主義」のようになっていないかということです。上記の「深いアプローチ」を意識的に生徒におこなわせているかが重要だと思います。意識的も大切です。そうでなければその学習活動は「デザインされていない」ということ、すなわち目的と手段・方法が考えられていないということになります。欲を言えば、私としては「深いアプローチ」をしている私、また教師は何を目的としてどう授業をデザインしているか把握する私、といったメタ認知を生徒にしてもらえるようデザインしたいです。


■双方向の授業という理想論もけっこうだか大体そういう授業は教室の秩序が乱れて失敗する。
>「秩序」とはどんな状態で何のために必要なのかが不分明ですが、授業の目的と手段・方法をきちんと立てられていてそれを生徒が理解していればそうはならないでしょうし、双方向の活動で授業がめちゃくちゃになるようなら、その教師の知識技能伝達型の一斉講義の授業では生徒はただ思考停止しているのではないかと思われます。


■グループワークに馴染めない生徒がいる場合どうするのか。
>わたしがそうですし、グループワークでご苦労されている先生方がいらっしゃることもよく知っています。その上でですが、なぜグループワークになじめないのか生徒理解が必要ですね。それは個に応じた支援のためにも必要不可欠です。生徒理解のよい機会でもあるととらえられるのではないでしょうか。そうすることでその生徒へのかかわり方や支援に仕方もみえてくるでしょう。グループワークありきみたいな話になっていますが、生徒の皆さんの将来を展望したときに、仕事や社会においてグループワークなしで済ませることはできません。失敗が許容される生徒のうちにいろいろと経験してもらうとよいと思います。ただ、同調圧力のようなものには注意が必要です。それは個を圧殺するからです。個が生きるために、グループにどうしたら貢献できるのか生徒ともに考える態度が必要ですね。


■そもそも、意欲や関心を評価するのは可能なのか。それは傲慢な考えではないか。
>意欲や関心を評価する必要はありません。上記の「深いアプローチ」が生じているかどうか、グループに貢献できているかどうかが評価ポイントです。じつはその評価は意欲や関心の評価と表裏一体です。意欲や関心がなければ深いアプローチなど起きようもありませんし、質も左右します。ということは、この「評価」とは授業者の授業デザイン力やファシリテーション能力、授業運営能力などへの評価に他なりません。授業者が評価されているのです。そこから授業者のリフレクションが生じて授業力を上げます。いいことですね。


■ペア学習やグループ学習をやっていれば教科書が終われない。授業が遅れるのではないか。
>たしかに協同型の学習は時間がかかります。ただ、深いアプローチやメタ認知の中には、知識伝達型の一斉授業では起きないものがあります。それらを起きさせるために協同型の学習などのアクティブラーニングが必要不可欠です。では、どうするのか?反転学習やプリント学習、クラウドの利用など時間を有効に使う工夫が必要です。たいへんですが、生徒の活動や成長が目に見えるようになりますよ。それは大きな喜びですよね。


■アクティブラーニングだろうが、一方的な授業であろうが、要は学力がつけばいいのではないか。
>どんな学力なのでしょうか?上記の深いアプローチやメタ認知の中には、知識伝達型の一斉授業では起きないものがあります。


■アクティブラーニングでは大学入試に耐えうる学力が身につかない。
>京都大学の方が、「受験で燃え尽きる学生や伸びしろのない学生が一番困る。こちらも本人も」とおっしゃっています。東京大学の先生の中には、「同じ学校出身の学生が増えてきて同質性が高まるのは創造的な教育や研究にはデメリットだ」とおっしゃる方もいらっしゃいます。そうした方々が見ているのは受験学力ではない「力」のようです。また、これは私の実体験ですが、受験のための演習に明け暮れる高校では、受験が終わった瞬間に生徒が「学ばなくなる」傾向がよく見られます。具体的にはまったく授業を聞かなくなります。受験のための授業なのだからあたり前ですが、先生方は憤っていました。なんか変です。それでよいのでしょうか?


■ベネッセの「大学生の学習・生活実態調査」を見ると「学生の自主性に任せる」より「大学の教員が指導・支援する方がよい」が15.3%(2008)から30.0%(2012)に増大。大学では生徒に受け入れられていないのではないか。
>全入時代にあって、大学教員が指導・支援しなくてもよい学生さんってほんの一握りではないですか?


■アクティブだけど気が散りやすい騒がしい教室より、熟練の教員に指導を受けアイディアを
 展開してもらいながら、自分で静かに思慮にふけることのできる環境の方が学びやすいという人もいる。(参考 ディープアクティブラーニング/松下佳代)
>熟練の教員の授業はすごいですよね。しかし深いアプローチやメタ認知の中には、知識伝達型の一斉授業では起きないものがあります。


■アクティブラーニングにおいても、講義形式の授業で見られた「学生の学びの質の格差」という課題は解決しておらず、一方で、フリーライダーの出現や、グループワークの非活性化、思考と活動に乖離のあるアクティブラーニングの状況が見られている。(参考 ディープアクティブラーニング/松下佳代)
>新たな学習方法には新たな授業力が必要になります。知識伝達型の一斉授業の達人の授業では講義形式の授業で見られた「学生の学びの質の格差」という課題は起きないのと同じです。



■現在の学校現場の体質から見ると、学習指導要領で規定することで、「主体的に学ぶことを叩きこむ」などといった、画一的にアクティブラーニングが進められ、教育現場の自立性・創造性が減殺される危険性がある。(参考 文部科学省コメント)
>現場の教員をなめてはいけません(笑)