先日の寝つきの悪い夜、最近読んだアマテラスの暗号のことなどを考えていました。

伊勢神宮の外宮の主祭神・豊受大神、内宮の天照大神とは一体どのような神様(あるいは人)なのか?

ちょっと古代イスラエルは切り離して考え、古史古伝の一つ・ホツマツタエの記述に素直に従うならば、外宮は実在の人物であり国の礎を築いたトヨケ(豊受大神)であり、内宮はその孫であり国を発展させたアマテル(天照大神)。

因みにトヨケの娘がイザナミであり、イザナギとイザナミの子がアマテル、アマテルの12人いたとされる后のひとりが祓戸四神で大祓詞の中に登場する謎の女神・瀬織津姫穂子(せおりつひめ・ほのこ)さん。

残念ながら私はきちんとホツマツタエを読んでいなかったので、今、ネットで検索しながらホツマツタエの概要を改めて調べているのですが、古事記などの日本神話よりこちらの方が自然な感じがしますね。

何気にホツマツタエでアメノコヤネを調べてみると、フツヌシ(経津主神・香取神宮御祭神)は母方の伯父であり、妻の父はタケミカヅチ(武甕槌神・鹿島神宮御祭神)。

アメノコヤネはアマテルからの信任も厚く、伊勢でアマテルの臨終を看取っています。またアマテルの子(オシホミミ)、孫(二にキネ)、曽孫(ヒコホオデミ)、玄孫(ウガヤフキアワセズ)の5世代に仕え左大臣などを歴任した後、春日の地に帰ったそうです。

神話よりホツマツタエの方が面白い。
今度、改めて最初からきちんと読んでみようと思います。

さて古事記が編纂されたのが和銅5年(712年)、日本書記が養老4年(720年)でした。
この当時、これらの編纂に携わったであろう藤原不比等らは当然、これらの内容は知っていたでしょうが、全国の一般民衆は知らされていたのでしょうか。

記紀では皇祖神は言わずもがな天照大神ですが、明治に至るまで歴代天皇の誰一人として皇祖神が祀られている伊勢神宮に参拝していないのは何故なのでしょうか。

これは記紀編纂当時の支配者と、伊勢で祀られていた天照大神(アマテル)とは実は何ら関係がなかったからであり、それは当時の一般民衆も知っていたからなのでしょうか。

古今東西を問わず「歴史は勝者によってつくられる」といいますが、記紀が成立する過程において、全国の神社や豪族から書物が没収されたとどこかで読んだ記憶があります。
そして新しく日本の正史といわれる日本書記などが編纂されたのであれば、7世紀に己巳の変などにより政権が大きく入れ替わった可能性があると考えられます。(と考えています。)

この時代の前後、古代から祭祀に担ってきたといわれる物部氏や忌部氏が衰退していますし。
いやいや同じく祭祀を担ってきた中臣氏は中臣鎌足の子、藤原不比等により後に栄華を極めた(専横的政治を行った)ではないかとも言えますが、後の藤原氏の祖ともいえる鎌足についてはその出自がかなり曖昧です。

古代史歴史家の関裕二さんは、鎌足は百済の王子であり人質として日本に来ていた豊璋ではないかとの言われています。だから白村江の戦に日本も参戦したのだと。

この辺りは素人の私にはわからないところではありますが、中臣氏といえば日本神話の天岩戸で祝詞を唱えた天児屋命(あめのこやねのみこと)を祖神とする由緒あると思しき氏族です。

古代日本においては、現在の私たちが考えるよりも「氏」というものを大切にしたと想像しますが、中臣氏の中でも鎌足の系譜に至っては、あっさりと中臣氏を捨て藤原氏となっています。これはそもそも初めから中臣氏とは縁がなかったのではと勘繰りたくなります。(勘ぐっています。)

少し話は戻りますが、明治天皇は何故、歴代天皇が見向きもしなかった伊勢に参拝されたのでしょうか。
そういう明治天皇に関してもいろんな説がありますね。

例えば本物の明治天皇は長州の伊藤博文らにより暗〇され、大室某(箕作某という説もあり)とすり替えられたと。だから顔を知られている京都から東京へ移動されただの、写真を撮られるのを極度に嫌われただの。

仮に本当に入れ替わっていたとすれば、新しく入れ替わった皇室への求心力を高めるため、富国強兵のため、伊勢神宮を頂点とする国家神道が新たに形成されたということですね。(こういうことを戦前にいえば不敬罪ですね。)

さて記紀に話を戻せば、神話の重要な地は出雲ですが、出雲大社(明治4年までは杵築大社)の創建については諸説ありますが、おそらく708年~721年の間と思われます。何となく記紀の編纂時期と被ってきます。

そういえば一般的には出雲大社から勧請されたとされる、京都府亀岡市にある出雲大神宮では、逆に出雲大社の方が出雲大神宮より勧請をうけたという社伝(丹波国風土記だったかな?)が残されており、「元出雲」と称されているそうです。

どちらが正しいのか知るすべもありませんが、江戸時代までは「出雲社」といえば亀岡の出雲大神宮を指すわけです。

また和銅6年(713年)に編纂が命じられた出雲国風土記(733年完成)では、出雲に伝わる「国引きし神話」などの話が収められており、記紀の内容とはかなり相違があるそうです。

その他、古代出雲王家の末裔といわれる「富家」に伝わる口伝においても、記紀の内容とは違う伝承が残されています。

現代においてさえ、わずか数十年前の歴史が塗り替えられてしまうのですから、古代日本のことを知ろうとすれば、まずは記紀から学ぶのが良いのでしょうが、それだけではなかなか真実はみえてこないですね。