昨日、パンセの『人間は考える葦である』がわかったような気がすると言いましたが、アルコールが入っていたための勘違いであることが、今朝、判明いたしました。

あまりに恥ずかしいので削除しようかと思いました。


何故、『葦』が浮かんできたかというと、思うに最近古代史に関する書籍をよく読んでいるのですが、そこに日本の国を美しくたとえて『豊葦原瑞穂国』とでてきます。

どのような情景などを指しているのか、ご存知ない方も何となく雰囲気はわかるでしょうか。

そういえば十数年前、長女が生まれた時に考えに考えて、『豊葦原瑞穂国』からとって『瑞穂』と名付けました。


あと、現在地域の役員をさせていただいてますが、今度その関係で溜池の葦刈りをするのですが、そろそろその準備をしないと・・・と考えていたので、何となく『葦』というキーワードが出てきたんでしょうか。

あと似たような言葉?に『我思う、故に我あり』でしたか、デカルトだったかな。


いったい我々は何を土台とし、何を基準に物事を考えたり判断したりするんでしょう?


それは人によって違うのでしょうが、自分の生活基盤のある共同体や地域の文化や伝統や歴史なのでしょうか。


と、無理矢理こじつけたところで、今読んでいるのはこの本。

葛城氏.jpg


古代の大豪族・葛城氏に関する本です。


この葛城氏、活躍が物部氏や蘇我氏などよりも古いことから、ほとんど文献等が残っていないそうですが、古代史にかなりの影響を与えたことは間違いありません。

その葛城氏の本拠地であったのは、私の自宅のある葛城市や御所市、広義でいうなら香芝市や王寺町・河合町なども含まれる地域でした。

※ちなみにうちの事務所は葛城総研コンサルティング 、コンサル法人は一般社団法人葛城総研 と、葛城の名を冠していますが、現在の事務所所在地は葛城地域ではなく橿原市です。



そしてこの葛城氏ですが、私の住む葛城地域を地盤に活躍したというだけでなく、今、私の中で旬である『武内宿禰』の後裔であり、同じく旬な『蘇我氏』とも緊密な関係があったようで、とても興味深い一族です。※蘇我氏も武内宿禰の後裔です。


300歳まで生きたという武内宿禰・・・浦島太郎のモデルかもしれず、山幸彦や神武天皇を導いた塩土老翁、あるいは神功皇后と関係深い住吉大神と同一人物かもしれません。応神天皇は住吉大神と神功皇后の間の子であるという伝承が各地に残されているそうですが、その応神天皇と神功皇后にずっとより添っていたのが武内宿禰です。また、同じく導きの神である猿田彦、あるいは事代主神(恵比寿さん)も実は武内宿禰のことだったかもしれません。


一説には、塩土老翁(=住吉大神)と羽衣伝説の豊受大神(現在、伊勢神宮の外宮に祀られています)は、夫婦となり酒を作って暮らしたそうですが、豊受大神と神功皇后(宮の名称は豊浦宮)も何かと縁があるようです。そう考えると本来伊勢神宮に祀られていたのは、内宮が武内宿禰(猿田彦)であり、外宮が神功皇后だった可能性もあります。

いろんな名前が出て、何だか混乱してきましたよね。



あと蘇我氏に関しては、それなりに歴史好きな私ですが、最近に至るまで蘇我馬子の長子である『蘇我善徳』という人物を知りませんでした。

そして、どうもこの蘇我善徳が豊浦大臣と呼ばれ、歴史上悪名高い蘇我入鹿であり、聖徳太子のモデルだった可能性が高いという説に最近傾倒しています。

何故、悪のイメージがあり、聖徳太子の一族である山背大兄王子を殺害した蘇我入鹿が、聖人・聖徳太子のモデルなのか!!って驚く方もいるかもしれません。

ちなみに、いわえる聖徳太子が活躍した時代の蘇我氏及び蘇我系皇族には、その名前に『豊』の文字が見られます。

蘇我氏系の聖徳太子や推古天皇の名前にも『豊』がありますし、推古天皇の飛鳥にあった宮の名称は『豊浦宮』でした。この辺りも興味のあるところです。



歴史の勝者である藤原不比等によって完成された日本書紀ですが、本当の歴史は日本書紀によって伝えられ、私たちが学校で教わったものとは全く違うものかもしれません。

とりあえず、今日は本の続きをこれから読みます。