最近の気づきを整理します。
1. 三学:ヴィパッサナーは「善悪を捨てる修行」ではない
仏教(テーラワーダ)では、修行は 戒・定・慧(三学) で組み立てられている。
ここで大事なのは、ヴィパッサナーは倫理(善悪)を捨てる修行ではなく、戒は瞑想の土台だという点だ。
戒(sīla)は「殺さない(傷つけない)・嘘をつかない」など、行動の方向づけとしての善悪を前提にする。
その上で、ヴィパッサナーでは、観察の瞬間に 善悪・正誤・優劣などの“価値判断”を付け足さない。
※価値判断を付け足さないとは。
「私の価値」といった私情への囚われから自由になり、私情の入らない「自他の抜苦与楽」のためである。
怒りが出ても「悪」という価値判断を入れず、ただ「怒り(緊張・熱さ・思考が速い)」として気づく。
「操作せず、あるがままに知る」ことが要点である。
価値判断が出たら、価値判断だと知る。以上。消さない。戦わない。ただ、価値判断に囚われない。
ここが重要です。
2. 無明:問題は「分からないこと」より「何が分かっていないか分からない」こと
長く修行していても、「分かっていない点」そのものが見えていないことがある。
仏教でいう 無明(avijjā) は、まさにこの構造を指す。
だから「分からないことが分かっていなかった」と気づいた瞬間は、失敗というより 無明が少し破れた瞬間 でもある。
3. 清浄道論:理論が最前線になる人がいる(それ自体は欠点ではない)
ここで、もう一つの気づきがある。
私の場合、仏教は“理論の理解”がとても重要だった。
しかし仏教は、理解(理論)→観察 の道は難しく、観察→理解(理論)の道が一般的だとも学んだ。
『清浄道論』には、修行者には性向(タイプ)があるという整理があり、理論理解が前面に出る人もいる。
これは欠点ではなく資質だ。
ただ、その資質が強いほど、「理解できない=前に進めない」とも感じやすい。
だから今後は、理論を“地図”として活かしつつも、観察という“歩み”を特に重視する。
今回も学びがありました。
生きとし生けるものが幸せでありますように🌱(合掌)