今回は、ヨガという言葉の意味について考えてみましょう。
ヨガの語源はサンスクリット語のユジュからきており、ユジュは「結ぶ」「結合」「馬などにくびきをつけること」という意味になります。
しかし、『ヨーガ・スートラ』に書かれているヨガについて考えるときは結ぶではなく切り離すと考えた方が正しいのです。
なぜなら『ヨーガ・スートラ』では、私たちの苦しみはプルシャ(純粋意識)とプラクリティ(根源物質)が無知によって結合してしまったことが原因で起きているので、その結合を解き、プルシャの独存状態へ回帰させることがヨガであると説かれているからです。
プルシャとプラクリティについては、自我意識はどのように生まれたか サーンキヤ哲学 を参考にしてください。
ですから、『ヨーガ・スートラ』におけるヨガの定義である心の死滅(チッタブルッティニローダハ)についても、欲望や自我意識を切り離すと考えます。
心の死滅については、ヨガとは何か② 心の死滅 を参考にしてください。
では、『バガヴァッド・ギーター』では、どのように説かれているでしょうか。少し引用してみましょう。
「心はヨーガの実習により抑制されて静まり、人は自ら自己のうちに自己(アートマン)を見て満足し、そこにおいて、感官を超えた、知性により認識されるべき究極の幸福を人は知り、そこに止まって真理を逸脱することなく、それを得れば、他の利益を劣るものと考え、そこに止まれば、大きな苦しみによっても動揺させられることがない、そのような、苦との結合から離れることが、ヨーガと呼ばれるものであると知れ。このヨーガを、ひるむことなく決然と修めよ。」
『バガヴァッド・ギーター』
6章20〜23
ここでも、ヨガとは苦との結合を「切り離す」ことであると述べられています。
アートマンについては、
を参考にしてください。
では、ヨガが結ぶとして解釈される場合はどのように考えたら良いでしょうか。
もう一度『バガヴァッド・ギーター』を引用してみましょう。
「実に、意が静まり、激質(ラジャス)が静まり、ブラフマンと一体化した障害のないヨーギンに、最高の幸福が訪れる。
このように常に専心し、罪障を離れたヨーギンは、容易に、ブラフマンとの結合という究極の幸福を得る。
ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己(アートマン)を万物に存すると認め、また万物を自己のうちに見る。」
『バガヴァッド・ギーター』
6章27〜29
上村勝彦 訳
ここでは、ブラフマンあるいはアートマンと結びつけ、一体となることがヨガであると説明されています。
切り離すと結びつけるという逆の意味が混在していて、なんとも難しいのですが、アートマンに一心集中しそれと結びつけること、そのための方法として、その他の対象を切り離していくこと、これがヨガであると理解すればいいですね。
ですから、
結びつけること
集中すること
切り離すこと
識別すること
聖典において、どのような文脈でヨガという言葉が使われているかによってその意味をよく考えてみる必要があります。
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