「音の存在」 | 西村直人の「ブーツを履いて絶叫を」

西村直人の「ブーツを履いて絶叫を」

坂本英三氏一番弟子
平成ハンサムマン
ヘヴィメタルバンド Fury of Fear ボーカル
殺陣団体 剣舞会エッジ-志伝流-
派生ユニット 黒母衣
Fury of Fear ANTHEM研究支部 支部長

このところ花粉症の影響か、頭がぼうっとしますね。笑

そんな曖昧な頭の中でぐるぐるしてる内容を整理したくてブログを更新。
先に書いておくと、特に結論は出ないです。笑

「音の存在」

例えば、誰もいない隣の部屋で立て掛けていた箒が倒れたとします。

その場にいれば、ししおどしのような軽くて乾いた音が聞こえることでしょう。

しかし、壁を隔てた隣の部屋で洗濯物を取り込んでいるわたしはそれに気づかないわけです。

この時、箒が倒れた「音」は存在するのでしょうか。

こんな疑問、人に投げかければ「当たり前だろ」と却下されてしまうとおもいますが(笑)

後で部屋を移動してみても、箒が倒れた事実があっても、その「音」が鳴ったことを証明する人がいないわけです。

誰もが鳴ったものだと思い込んでいて、実は誰も聞いていないその「音」は、本当に存在したのでしょうか。

何考えてるのでしょうね(笑)
ただ、この存在証明を、歌や刀での自分の表現に置き換えた途端、結構恐ろしい気持ちになるのです。

わかりやすく歌で書いてみます。
昨日わたしは曲を一曲作っていました。
例えばその曲を全く発表しなかったとします。
わたしはその曲が「存在する」のを知っていますが、他の誰も知らないわけです。

主観的な視線を除くと、わたしの曲はこの世に存在しないことになるのではないでしょうか。
箒自身は倒れた時の音を聞いていても、それを証明することはできません。
幸い、人間であるわたしは大なり小なり発表することができるので、証明することはできるかもしれません。

しかし、それを聞いてくれる人がいなければどうでしょう。
わたしがかき鳴らしたつもりでも、誰の耳にも届かなければ、その曲はいまだ「存在」しえないのかもしれない。

わたし自身の「存在」は、周りの誰かから認識されてはじめて証明されるものだとしたら、多少周りに気を遣いだしちゃいますね。笑

「存在」を証明するために自分以外の人が必要だとするなら、やはりひとりでは生きていけないですね。
いろんな方々に感謝しないと。
心の中で。笑

裏を返すと、わたしも他の誰かの「存在」を証明できる人でありたいです。
どちらかというと個人主義なほうですが(笑)
小さな音もできる限り聞き取れるように、よく耳を澄ませてみます。

自身としては、部屋で倒れた箒になるのか、西村直人という「存在」であるのか。
それをどう証明するか。
いろんな形が見えてきそうです。

直人さん、そろそろぼうっとするのはやめて、シャキッとしてみませんか。

今日も見てくださりありがとうございました!

あなたに愛美叫陥な毎日を。

Stay Handsome