関東大震災にあった「花子とアン」
既に90年以上前の話、東京大空襲の話を
聞くことはあっても震災ははるか昔のお話
祖父、福田屋森田千吉は商売が順調だった
のか大正11年に日本橋区矢ノ倉に(今の東
日本橋)に自宅兼店舗を新築しました
福田屋の屋号を道路に影絵の様に照らす
照明にしたりと、大正時代は斬新な事を
したようです
そんな翌年の関東大震災で実家と共に焼失、
命は助かったものの家も在庫も失いました
火災は震災発生の9月1日午後から3日
朝まで燃え続け、なんと
日本橋区の焼失面積率は100%!
が当時の被害のすごさを物語っていますね
(京橋区・浅草区・深川区は90%代)
神奈川大学21世紀COEプログラムという
HPに火災の燃え広がりの様子が火災延焼
動態図という資料でよくわかります↓
http://www.himoji.jp/database/db06/flash/fs-moving.html
助かった千吉は被害の様子を見て、山の手
で被害のなかったお得意様のお屋敷に親戚
縁者の方が避難に来るだろうと読んで、毛布
と薪を買い込んで、運搬用に馬を借りお得意
様まわりをしたそうです
何往復かするとそこそこの金額になったとか。
それを元手に生活再建をするのかと思いきや
尾久の花柳界が焼けていない!
と聞いて荒川区の花柳界に数日間も居続けを
したそうです。通信網が使えず情報が混乱する
なか、どこで聞いたのですかね?
数日後に宮城前広場(皇居前広場の事)で家族
と再会、みんな無事だったそうです
普通なら家族の安否確認や生活再建が先だと
思うのですが、祖父にとっては花柳界で遊ぶ事
が第一順位だった訳ですね
ここで不思議に思うのがなぜ「尾久」なのか?
歩いて行ったのか、馬を借りたまま乗って
行ったのか?
具体的にどこのお得様を回ったのかは聞いて
いないのでわかりませんが、最後に回ったお得意様
のお宅から近かったのでしょうか
神楽坂の花柳界も無事だったで行動範囲をから
考えると神楽坂になりそうなものですが・・・
被災経験は子孫に教訓を残すものですが、
これは全く役に立ちません。ま、今だから
笑える話ですが