さて、闘病ブログを卒業する前に
どうしても紹介しておきたかった
「担当PTさんからの手紙」を紹介させていただいてから
休業に入ろうと思います
(ブログで紹介することは、ご本人の了承済みです)
…私が、以前
あるメッセージをいただいて →記事はこちら
ちょうどそのころ
リハの記録を本にする、という話が持ち上がっていて
悩んで、PTさんと出版社の担当の方に送ったメールに対して
お返事くださったものです
注:認知神経リハビリテーションでは
「○○療法士」のことを「セラピスト」と表現します
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(略)
ブログに限らず、
「情報」は希望にもなり、刃にもなる と思います。
言い換えれば、
刃になり得ないものは希望にもなり得ないと。
希望という言葉は、
とても困難で打開しがたい場面でのみ成立する言葉です。
それゆえに、希望というものは不確実で、曖昧なものです。
たとえば「風邪」がもし治療に難渋する疾患であれば、
「ルルA」は希望になり得るかも知れませんが
実際にそれほど大騒ぎしないのは、
「完治する事が分かり切っているから」です。
CRPSや難治性疼痛と言われる疾患が、
まだその病態も治療法も不確定である以上、
「効果があった」という情報は希望であり、刃となります。
(略)
僕はセラピストとして、「希望を見出す責務」があると思っています。
希望は「リハビリテーション」という言葉に内在されているものではないのだと。
それを知らなければ、
「リハビリ」という言葉は希望にもなるし、暴力にもなります。
希望は、患者さんのために医療者が勝ち取ってくるものじゃないかなと。
「リハビリテーションの適応は患者の中にあり、限界はセラピストの中にある。」
あるセラピストの言葉を胸に臨床に向かっています。
「アプローチの具体的なこと」も大事なのかも知れませんが、
「あきらめずにどうにかしようとしている」
セラピストがいる事は知ってもらいたいなと。
言葉にしにくいなぁとパソコンに向かいながら早20分。
全然、普段通りにならない(^_^;)やっぱり、場を共有しなきゃダメですね。
本を書く人というのは本当に凄い人です。
○○さん(協同医書出版社の担当者様)が見るメールで
こんな事を言っちゃまずいんだろうけど、
昨年の学会で、臨床講義をさせていただいた折に
「もっともっと困難で、どうしようもない患者と出会って
認知神経リハでダメならセラピストはそこで諦めるの???」
と言ってしまったのですが、正直な気持ちでした。
僕は認知理論という認知神経リハの根幹をなす考え方は
もちろん理にかなっていると考えていますが
それより何より、現状に甘んじず
今までリハビリテーションが勝てなかった物に、
どうにかして勝ってやろうと挑戦し続けるペルフェッティ先生や宮本先生、
鶴埜先生(学会の時に会いましたよね?)の姿に
希望を感じていました。
もちろん、あぁだこうだ言いながら
何も出来なかったらなんも意味がない訳ですけど(悲)
本格的な乱文になりましたが。。。。
「闘病中に一人だけ良くなってしまった奴」と
「敗戦続きだったのに、
ある人を良くしてしまった奴」で責任をとりましょうか(笑)
CRPSや難治性疼痛が治る事が
「希望」でもなんでもない「普通の事」になるように。
小さな小さな、ほんとに小さな一歩を歩むことを
4年間続けてきてきたように、
リハビリテーションも
小さくても着実に変化させなきゃいけないんだと思います。
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いろいろと思うところはあります。
気持ちがどうしようもなくしんどくて
「なんで諦めてくれないんですか」と
PTさんに食って掛かったこともあります。
だけど、
こんな奴もいた、的に、記憶にとどめておいていただけると、嬉しいです。
春には、いろいろとご報告をさせていただいて
ありがとう&闘病卒業、と書けるといいなと
思っています
読んでくださってありがとうございました。
では、しばし、冬眠に入りま~す
ちひろ